嘗ての「豊原市役所」の建物(2017年10月11日)

↓コムニスチ―チェスキー通に在る、少し古く視える建物で、色々な会社のオフィスが入居しているようです。
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↑長く白と淡いピンクの塗装で、経年変化で塗装も傷んで見栄えが悪かったのですが、茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見になりました。

この建物は「豊原市役所」であったそうです。

日露戦争の末期、1905年に日本軍が樺太を占領し、ポーツマス条約による戦後処理で南樺太が日本領になった後、1908年にロシア語名のウラジミロフカを「豊原」と改称し、都市建設が始まって「樺太庁」を大泊から豊原に移しました。

豊原は樺太の行政の中心であったことから、経済や文化の面でも樺太をリードする地域となって発展を続け、1937(昭和12)年に市制を施行して「豊原市」となりました。樺太で「市」であったのは豊原だけでした。その豊原市の登場以前、国内では旭川市が「最北の市」であったとのことですが、以降は豊原市が「最北の市」ということになりました。因みに稚内市の市制施行は1949(昭和24)年です。

戦後の1946(昭和21)年、南樺太がソ連化されて行く中で豊原は「ユジノサハリンスク」に改称されて現在に至っています。そして日本の側では、戦後の行政機関に関することを規定する「国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)」が1949年に施行され、「樺太庁」や「豊原市」は法的に廃止ということになっています。

この画の古い建物が、日本の法の下で「豊原市役所」であった期間は12年程、実質的には10年足らずであったということになります。

茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見が「往時を偲ばせる」感じになりました。が、嘗ての経過等を伝える展示が為されているのでもなく「普通の、何処かの会社のオフィス等が入居する、実は相当に古いらしい建物」という存在感です。外観を眺めるというだけの場所です。

夕陽の光を受ける街:ユジノサハリンスクの<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(2017年10月07日)

好天であった土曜日の午後、不意に<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>を思い出しました。

オフシーズンにもゴンドラを運転し、山の上が「街を一望出来る展望台」のようになっています。

↓午後6時台の様子です。
夕陽の光を受けるユジノサハリンスク 07-10-2017.jpg
↑日が傾く時間帯がドンドン早くなっている中、「こういう様子」が午後6時台に視られるようになっています。

雲の間から光が「天から地への階段」のように放たれていて、その光に街が照らされています。

山頂の辺りですが、やや冷たい風が少し強めで、着ていた上着の前を閉じ、ボタンを確りと留め直しました。

やがてこの場所でも、街に明かりが入って行くような様子が、ゴンドラの運転時間の範囲で視られるようになることでしょう。現在、夏の多客期が過ぎていることからだと思いますが、土曜日も「19時までの運転」になっていました。

<クリスタル>(2017年10月02日)

ユジノサハリンスクには屋内型スケートリンクが2つ在ります。

↓その1つである<クリスタル>です。
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↑ユジノサハリンスク市街の南東側に在ります。西から東へ、緩やかな上り坂になるプルカエフ通が東端に至ってゴーリキー通と交差する辺りに在ります。駐車場になっている構造が下の方に在って、少し小高くなった場所に建物が視えます。

↓建物に上がる手前で振り返ると、西日に照らされるプルカエフ通が視えます。
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このクリスタルは、<アジアリーグアイスホッケー>に参加するチームである<SAKHALIN>の本拠地です。2017-18シーズンはレギュラーシーズン28試合の中、14試合開催が予定されています。

月曜日開催の試合は午後7時開始で、10月2日、その時間に合わせて足を運びました。

10月2日の試合は<SAKHALIN>が韓国から<HIGH 1>(ハイワン)を迎えての対戦でした。第1ピリオドで、巧みなカウンター攻撃を見せ、有利な"パワープレー"のチャンスも生かした<HIGH 1>が2対0と先行しました。が、<SAKHALIN>は第2ピリオドで2点を奪い返し、第2ピリオド終了直前に3点目を得ました。第3ピリオドで<SAKHALIN>は2点を追加し、5対2の逆転勝利でした。

↓<クリスタル>の敷地、建物の周辺はバスケットボールをすることも出来るようになっています。
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↑この時は少年達がバスケットボールをやっていました。他、ここでローラースケートをやっている子ども達を視掛けることも在ります。また、アイスホッケーの試合が行われる日は、<SAKHALIN>のチームで使用している専用バスが駐車している様子が視られることも在ります。

アイスホッケーの試合が開催される場合、観客席は1100席とのことです。当日券も売られています。<SAKHALIN>の試合で、不人気の1列目は50ルーブルでしたが、もっと観戦し易い上段の方の席は200ルーブルでした。

<クリスタル>はプロリーグの試合にも使用されていますが、日頃からスポーツクラブが活動する場にもなっています。少し先の商業施設の周辺のバス停等で、ここでの活動に参加する行き帰りであると見受けられる子ども達の姿を視掛けることも在ります。アイスホッケーやフィギュアスケート等の活動が行われているようです。

↓<クリスタル>のウェブサイト
>>ОГАУ Дворец спорта "Кристалл"(ロシア語)

早朝に眺めてみる<展示・記念複合施設 "勝利">(戦史博物館)の建物外観(2017年09月22日)

「ガイドツアーのみで、観られるのは1階のみ」という限定的な型ではあるものの、長く"準備中"という話しで中を見学出来なかった<展示・記念複合施設 "勝利">(戦史博物館)が見学出来るようになり、訪ねてみた経過が在りました。

とにかくも「酷く目立つ」建物なので、見学できない状況だったのがよく判らなかったのですが、限定的な型ではあるものの見学可能となって善かったと思うようになりました。そういうようになると、「酷く目立つ」建物の外観を愉しんでみようということになります。

この建物が在るパベーダ広場は、ユジノサハリンスクの街の東寄りに相当します。朝早い時間帯には、日出が視られる方角で、朝は光で空が刻々と劇的に表情を変える場合も見受けられる筈で、建物の見え方も面白い筈です。

そんなことを思い始めていたのでしたが、早朝6時頃に戸外の様子を伺ってみると天候が好さそうな感じだったので、パベーダ広場に足を運んでみました。

↓午前6時半になる前です。
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↑暗い夜空の青味が少し濃くなっている感じではありますが、華々しいライトアップが点いたままの状態で、「夜の残滓」というものを色濃く感じます。

↓午前6時半頃になるとライトアップは消灯となるのですが、何となくライトアップが「未だ続いている?」ように視えなくもありません。
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↑これは写真に撮ると黄色味を帯びた光になる街灯が未だ点いているため、建物や地面がその黄色味を帯びた光の影響を受けた見え方になります。

↓午前6時50分前後に街灯も消灯になると、辺りは「朝の刻々と変わる自然光」が創り出す色合いで視えるようになって行きます。
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↑午前7時頃になると、この辺りの背後の丘陵の向こうの空で朝陽が上がり始め、辺りは早朝に特有な紫色を帯びた光に包まれ、建物の白い壁等は特に紫色を帯びて視えます。

このパベーダ広場の辺りは、日本国内の都市では余り例が思い当たらない「広々とした空間の構成」で、同時に見慣れない感じの大きな建物が在って、散策してみるには興味深い場所のように思えます。ユジノサハリンスクに限ったことでもないと思いますが、何かで他所の土地に滞在する機会には、「早朝の時間を利用して辺りを歩き回ってみる」ということをしてみると、思いも掛けずに素晴らしい光景に出会うことが出来るものです。

「早朝の時間を利用して辺りを歩き回ってみる」といっても、明るくなる時間帯が早過ぎる、逆に遅過ぎるというのはやや困りますが、現在の時季であれば「6時台は一寸暗く、7時頃から明るくなる」という感じなので「朝食前に一寸」ということもし易いかもしれません。

それにしても「酷く目立つ」建物が、夜明けの前に刻々と色を変える様子は、なかなかに見応えが在ります。

<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>(2017年09月16日)

稚内市サハリン事務所の近くのレーニン通を南下し、東の端に大聖堂等が在るパベーダ通を越えて、少し先に進むとパグラニチナヤ通が在ります。レーニン通と交差する辺りは、少しユニークな建物のカフェも在る緑地になっていて、寛ぐ人達、親子連れや遊んでいる子ども達が見受けられます。

そのパグラニチナヤ通を東側へ少し進むと、少し気になる建物が在ります。

↓こういうような屋根が視える建物です。
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↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が見当たらず、少し寄って「気になる」切っ掛けとなった特徴的な屋根の辺りを撮ってみました。

丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられています。十字架の形状はロシア正教の、上と下に横線が加わった独特な様式のモノです。

↓「恐らく?」と思って入口に寄ってみれば、間違いなくロシア正教の寺院でした。
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↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称です。上の方は、ロシア正教の施設であって、何処の管轄区であるかを示す表現です。ここは<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるようです。

↓寄ってみたのは土曜日の日中で、中に入ることも出来ました。
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↑大きな堂内でもありませんが、確りとイコンの壁が形成され、なかなかに立派な設えです。

↓外から見えるドームの辺りから、中に光が入り込むような具合になっていて、ロシア正教の寺院で多く見受けられる雰囲気が醸し出されています。
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この堂内の隅に、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>のあらましを綴った小さなリーフレットが在りました。それを視ていると関係者の方が通り掛かり、「頂いて構わないか?」と尋ねると「勿論!」ということなので、有難く頂きました。「なるほど...」とリーフレットを視ていると、関係者の方が近付いて来て「こちらも差し上げます」と、この寺院の名の由来となっている「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物を紹介したリーフレットも下さいました。

この寺院の場所は、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていた中、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだということです。これが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となって行きます。

地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられ、建築が許可されました。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至っています。活動を始めた頃の旧い建物は撤去したとのことです。

建物は2012年供用で新しいモノですが、1990年代初めに「ロシア正教の活動」が活性化したような頃からの経過が背景に在ります。筆者のような見知らぬ来訪者でも、ロシア語のリーフレットが読めるのであれば、そういう経過を知ることが出来るように、リーフレットが用意されています。そういう辺りに「生き生きと活動が行われている場」というような雰囲気を感じました。

ここの名の由来である「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)は、今年が生誕220年ということになります。活躍した時代は、日本史で言うと「江戸時代の末頃から明治時代の初めの方」という時代です。

イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となり、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任しています。イルクーツクを発って、任地に到着出来たのは翌年になってからのことだったそうです。

アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成し遂げました。そして彼が活動と並行して綴った様々な記録は、現在では現地の当時の状況を知る貴重な史料にもなっているようです。

1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けています。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになりました。

1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っています。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任されました。

ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物ですが、「アラスカのインノケンティ」としても知られています。

19世紀後半から末の頃、様々な少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたといいますが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る訳です。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思えます。

彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうです。

↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのですが、本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所です。
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大勢で見学に出掛けるような雰囲気でもないようには思えますが、「地域に根差した普通な教会」という雰囲気が判るのは、こういうような場所かもしれません。

<展示・記念複合施設 "勝利">(戦史博物館)(2017年09月19日)

ユジノサハリンスクには「パベーダ通」、「パベーダ広場」という住所が在ります。"パベーダ"(победа)は「勝利」という意味ですが、街の住所にこの語が容れられている場合には、「第2次大戦での戦勝」という意味合いになっています。そして"パベーダ"の語が入る住所は、ユジノサハリンスク以外の街にも在ります。実際、以前に訪ねてみたドリンスクでも視掛けました。

ユジノサハリンスクのパベーダ通は、街を東西に横切るような街路で、東寄りの起点・終点が丘陵の麓になっていて、そこにパベーダ広場が在ります。パベーダ広場に関しては「戦勝広場」とも紹介されます。

パベーダ広場には、以前から<戦勝記念碑>ということで、第2次大戦期のソ連軍を代表する戦車であるT34を載せたモニュメントが在りました。辺りが見渡せるような感じの場所に、台座で高く掲げられたT34戦車が視えていました。

このパベーダ広場に隣接して大聖堂の建設、そして広場そのものにも建物の建設が始まり、暫らくT34戦車のモニュメントに近寄ることが出来ませんでしたが、2016年に大聖堂が開かれ、広場の建物も出来上がりました。

↓パベーダ広場の建物ですが、夜から早朝の暗い時間帯には酷く目立ちます。見事にライトアップされています。
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↑春から秋の期間、ユジノサハリンスクでは夜遅めな時間帯から早朝に掛けて"散水車"が登場します。そのために雨でもないのに路面が濡れています。濡れた路面に光が映り込み、建物は「湖畔の豪華ホテルか何か?」のようにも見えます。

この建物が<展示・記念複合施設 "勝利">です。これは言わば「戦史博物館」というような展示施設なのです。

2016年に建物が完成していますが、博物館として普段から公開されているのでもない状況でした。2017年に至っても状況は変わりません。筆者は2017年4月以降にサハリンで活動していますが、この博物館は見学可能となってはいませんでした。

それがこの9月になって以降、「関係者風でもない人達の出入りが?」という様子を何度か視掛けました。そこで調べてみれば、「見学可能になった」というのです。

↓様子を視に行ってみました。
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この<展示・記念複合施設 "勝利">ですが、月曜日が休館で毎日開いています。11時開館で18時閉館ですが、金曜日は20時閉館、土曜日は19時閉館と休前日と休日は延長会館です。

建物の向かって右側に入場券販売の窓口が在ります。入場券は300ルーブルです。

↓こういう立派な入場券です。
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↑表は施設の型をイメージした渋いデザインで美しいのですが、裏面には日付や時刻が書き込まれ、何やら劇場やコンサートホールの券のようです。

館内の見学に関しては「各指定時刻のガイドツアーのみ」という体制になっているので、券の裏面にガイドツアーの日付と時刻が書き込まれているのでした。開館後、30分毎にガイドツアーが組まれていて、券を求める際に「しろまるしろまる分の」と指定することになります。ここを訪ねた際、10分位後に始まるというガイドツアーが在ったので、その券を求め、中央の入口から入場しました。

↓空港の保安検査のようなゲートを潜って入場すると、建物の中央に在る丸い屋根の下辺りに出ます。
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↑壮麗な吹き抜けになっていました。

この壮麗な吹き抜けの辺りに、同じ回のガイドツアーで入場した10人足らずの見学者が集まり、ガイドの女性の説明が始まりました。

この施設の展示スペースは4フロア在るものの、現在公開している見学可能なフロアは1フロアに留まっているということでした。

この施設は戦史に関して紹介することを目的としており、第2次大戦の他、日露戦争のような戦争や、アフガニスタンやチェチェンのような近年のものまで、19世紀後半から20世紀のロシアが関わりを持った戦争、或いはサハリン州の区域での出来事を丁寧に工夫しながら紹介することを目指しているということでした。

現在の時点で見学可能な1階ですが、第2次大戦のサハリン等での戦争に関する展示ということでした。

外から建物を視た場合に右側に相当する展示室からガイドツアーが始まりました。

最初の展示室は「史料学習コーナー」という趣きの場所でした。ガイドの女性は、極東でのソ連参戦の経過や、サハリンでの戦闘の展開に関して一通り説明し、「テーブルのような大きさになっているタブレット端末」のような機器で、叙勲されている将兵に関することや、当時の軍に関する史料、将兵の書簡のような史料を紹介していました。説明を聴きながら視て、この場所は個別に時間を掛けて史料に触れるような見学の仕方が好いように思いました。

次の展示室は、実際に現地で集めたモノも混ぜた型で造り上げられた「実寸大ディオラマ」で「占守島の戦い」の様子を紹介するものでした。

↓上陸するソ連海軍の兵士達の様子です。等身大の人形で、当時の将兵の服装が本物のように再現されていて、人形が身に付けている装備品の一部には"実物"も交じっているようです。
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↑「占守島の戦い」はソ連の陸海軍の混成部隊が上陸し、島に在った日本軍と交戦に及んだというものです。

↓占守島には日本軍の戦車隊が駐留しており、ソ連の将兵は戦車を持たず、限られた対戦車兵器で対抗することになり、大きな犠牲を払うことになってしまいました。
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↑戦車は占守島から持ち込んで、外見を整えたモノのようです。

この「占守島の戦い」に関して、ソ連軍は大き過ぎる犠牲を払い「必ずしも成功裏に進行した軍事作戦でもないのではないか?」というように思えないでもないのですが、クリル諸島に展開する端緒となっていることや、大きな犠牲が払われたという意味で注目されているようです。

ディオラマで再現された様子を視ながら、ガイドの女性は熱心に話しをしていました。最後に、このディオラマはサンクトペテルブルグの造形集団が中心になって制作されたということも紹介されました。

概ね45分間に亘るガイドツアーでした。説明はロシア語のみです。

或いはここは「順次、展示が増えて行く」という「発展途上」な場所という感じです。現在の時点では、「占守島の戦い」のディオラマに関して見応えが在るかもしれないという具合で、「史料学習コーナー」という趣きの場所に関しては「小一時間も放っておいてくれれば、随意に史料を視るのだが...」というもどかしさが在りました。他方、やがてここは戦史に関して広く立体的に学ぶことも出来る場になるという期待は沸き起こりました。

どの位の時間を要するのかはよく判りませんが、ここに例えば「日露戦争の頃のサハリン」というような展示でも登場したなら、必ず再訪したいと思いました。現時点で訪ねてみて、「建物が出来て、なかなかオープンしないが、中はどういうように?」という疑問への回答が得られたに留まった感です。

サハリンスカヤ通で出逢うロシア海事史に名を残す人達の胸像(2017年09月09日-10)

サハリンスカヤ通は、ユジノサハリンスク都心部の少し北寄りな辺りを東西に延びている通です。豊原時代には、この通の北側が「北1丁目、北2丁目...」で、南側が「南1丁目、南2丁目...」という境目になっていたということで、古くから道幅は広いようです。

このサハリンスカヤ通は、南北に延びる交通量が多いミール通やレーニン通と交差していて、更に西海岸方面へ延びる街道に連なっていることも在って、何時も交通量が多めで賑やかな場所です。

そんなサハリンスカヤ通を、東寄りの<ガガーリン公園>に通じるような側から、西寄りの鉄道の線路に近い側まで歩くと4ヶ所の緑地に出くわします。

このサハリンスカヤ通の4ヶ所の緑地ですが、「共通テーマで整備」という感じが面白く、また「テーマ」も少し興味深いと思います。

↓ミール通との交差点辺り、信号機が備わった横断歩道の辺りに、ネヴェリスコイの胸像が据えられた緑地が在ります。
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4つの緑地は整備計画が進められていた様子ですが、今年工事が行われた他の3ヶ所に先行して、このネヴェリスコイの胸像が在る広場は整備工事が完了していました。

ゲンナージー・イワノヴィチ・ネヴェリスコイ(1813-1876)は、極東で活動していて、1853年に現在のコルサコフ市の辺りにムラヴィヨフスキー哨所を築いたことや、サハリンの調査の全体指揮を執っていたことで知られます。サハリンでは何かと名前が出て来る人物です。

↓少し西へ向かうとクルーゼンシュテルンの胸像が据えられた緑地が在ります。
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↑ここは整備工事が竣工したばかりの場所です。

アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(1770-1846)は、ロシアでは寧ろ「イワン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールン」として知られており、ユジノサハリンスクの胸像にもイワン・フョードロヴィチの方の名が刻まれています。

クルーゼンシュテルンはバルト海沿岸部に居たドイツ系の一族で、スウェーデン貴族の流れを汲む一家の出であり、エストニアで産まれています。記録に残るロシアの船団としては「初めて」となる世界周航の指揮を執った海軍士官です。

1804年にロシアの使節であるニコライ・ペトロヴィチ・レザノフが長崎へやって来て通商を求め、幕府が断ったという出来事が伝えられていますが、そのレザノフが乗っていた船の指揮を執っていた人物が世界周航をしていたクルーゼンシュテルンでした。更に彼は、現在の「日本海」に関して、 "MER DU JAPON" と地図に記し、「日本海」の名を使い始めた人物とも言われているようです。

序でながら、長崎で任務を果たせなかったレザノフがカムチャッカ方面へ引揚げる際、稚内沖を通過しているという話しが在るといいますから、胸像のクルーゼンシュテルンは「1804年頃の稚内」を船上から見詰めていたかもしれません。

↓更に西へ進み、交通量が多いレーニン通が視えて、伝統的な映画館の<コムソモーレツ>の隣り辺りの緑地にはルダノフスキーの胸像が在ります。
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↑この映画館の横の緑地も、整備工事が竣工したばかりです。

ニコライ・ワシーリェヴィチ・ルダノフスキー(1819-1882)は、ネヴェリスコイの下でサハリン南部を踏査し、詳細な調査報告を行った人物として知られます。

サハリンに関する「最も古い記録」のようなモノの多くは、「ルダノフスキーの調査報告」である場合も多々在るようです。ネベリスクでは、その「ルダノフスキーの調査報告」に現在の市域に到達した言及が在ることから、彼の到達という故事を"建都"と位置付けています。ユジノサハリンスクでも、例えば先日の『街の日』ではウラジミロフカ村が起こる以前に、ルダノフスキー達が現在の市域を訪ねて調査活動を行った経過が紹介されていました。

↓映画館の辺りからレーニン通を渡り、サハリンスカヤ通をそのまま少し西へ進むとゴロ―ヴニンの胸像が据えられた緑地が在ります。
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↑3ヶ所同時に進んでいた緑地の整備工事でしたが、このゴロ―ヴニンの広場は地面にコンクリートを流し込む等、他の2ヶ所以上に大袈裟なことをやっていたように視えましたが、ここも無事に竣工しました。

ワシーリー・ミハイロヴィチ・ゴロ―ヴニン(1776-1831)は、<ディアナ>号、<カムチャッカ>号と2隻の船の指揮官を歴任していて、2回の世界周航を果たしていることでロシアでは知られていますが、日本史でも所謂「ゴローニン事件」の当事者として少し知られている人物です。

ゴロ―ヴニンは<ディアナ>号による世界周航(1807-1809)を果たした後、1811年に千島列島の測量任務に就き、国後島で活動をしていましたが、そこで幕吏に捉えられてしまいました。ゴロ―ヴニンの下で副長を務めていたピョートル・リコルドは、1813年に至って箱館(函館)を拠点に広く交易を行っていた高田屋嘉兵衛らを捕え、幕府側とゴロ―ヴニンの解放を交渉しようとしました。そして高田屋嘉兵衛も協力し、ゴロ―ヴニンは解放されたというのが事件の顛末です。

ゴローヴニンは1816年に、日本で捕えられてしまった際の経験や見聞を纏めた『日本幽囚記』という本を著しますが、これが欧州諸国で広く読まれることとなりました。

そういう日本とも縁が在るゴロ―ヴニンの胸像が据えられた緑地には、彼の生涯を紹介する内容の綴られたパネル、或いは後年彼が指揮を執った、恐らく当時最大級の船であった<カムチャッカ>号の紹介パネル等が据えられています。(ロシア語で綴られています。)

サハリンスカヤ通を東西に動き回ると、ロシア海事史に名を残す人達の胸像に出逢うことが出来て一寸興味深いものが在ります。なかなかにお薦めな散策路ではありますが、筆者としては、ゴロ―ヴニンの胸像が在る緑地の少し先に在る「美味しいスープのお店」が非常に気に入っていて、そこへ足繁く通うためにこのロシア海事史に名を残す人達の胸像を眺めながら歩いているという感も否定出来ません。

「在コルサコフ日本領事館」の遺構と<コルサコフ修道院>(2017年08月15日)

1875年に<樺太・千島交換条約>が締結され、サハリン全土がロシアの帰属ということになった時、条約条文に「全魯西亜皇帝陛下ハ日本政府ヨリ"コルサコフ"港へ其領事官又ハ領事兼任ノ吏員ヲ置クノ権理ヲ認可ス」(ロシア皇帝は、日本政府によってコルサコフ港に領事または領事事務を取り扱う吏員を配置する権利を認める)と在ったことから、<在コルサコフ日本領事館>の開設を目指します。1876年4月1日付の開設とし、実際には最初の領事が着任出来た6月9日に開館したそうです。

当時のサハリン南部には、日本人が色々な仕事をする、所謂「出稼ぎ」が多く見受けられ、そうした日本人の保護のために領事館の開設を急いだようです。当初は、人の動きが活発な4月から9月の間に開館するようにしていたそうです。

この領事館に在勤していた日本人に関しては、1890年にサハリンを訪れている作家のチェーホフが接触していたと伝わります。チェーホフは北部の、ロシア領サハリンの中心的な街でもあったアレクサンドロフスク・サハリンスキーをサハリン滞在の前半で拠点にしますが、後半は船でコルサコフ港へ移動し、コルサコフを拠点にして活動しています。

当時の日本領事館はアイヌの集落の名でもある<クシュンコタン>と呼び習わされていた、現在のコルサコフ市域の中で最も古くから拓けていた地区に在りましたが、チェーホフもその地区の住居を借りて滞在していて、日本の領事館員達とは「御近所」でもあったようです。

<クシュンコタン>と呼び習わされていた、現在のコルサコフ市域の中で最も古くから拓けていた地区は、ユジノサハリンスク側からコルサコフへ向かう場合は、"市街"という雰囲気が始まるような、「街の入口に近い側」に相当します。鉄道施設が在る様子や、ロシア最大手石油会社の<ロスネフチ>のガソリンスタンドが視えているような辺りで道路を1本入ると視える辺りに往年の日本領事館が在ったと伝わります。都市間の路線バスでコルサコフへ向かっても、下車出来る場所が近くに在ります。(サハリンのバス停に多く見受けられるのですが、停留所名が不明瞭ではあります。)

↓その日本領事館の「遺構」と伝わる石垣が現在でも在ります。残念ながら、石垣は「往時のモノの一部」に留まっています。それでも「日本の流儀による石の積み方?」という雰囲気は何となく判ります。
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↑石垣の向こうには、「ロシア正教関係の建物?」と見受けられる施設が覗いています。

日本領事館の遺構であると伝えられる石垣の脇に門柱が据えられ、金属製の柵のような門扉も在ります。が、確り締めて外来者の出入を阻んでいるというのでもありません。車輛は勝手に敷地へ進入出来ませんが、人は普通に出入りできるような具合になっていました。

一部のロシア正教の施設に関しては、何か凄く長い、複数の呼称が在るような事例も在って、何と呼べば好いのか困ってしまう場合も見受けられます。この石垣の向こうに覗く施設についても、門柱の左右に在る看板を視て、そういう「判り悪い...」例に該当すると思いましたが、とりあえずここは<コルサコフ修道院>と称する機構の一部で、聖堂になっているようです。

来訪者が中を覗いても差支えが無い様子なので、中に入ってみました。

↓花が色々と咲いている庭園風な設えの場所に、御伽噺の世界のような建物が建っていて、少し足を停めて眺めていました。
コルサコフ修道院 (2).jpg
↑後から建物に入って、掲出されていたモノを視る限り、1996年頃から建物を順次整えて現在に至るまで活動を続けている施設のようです。

↓中には礼拝を行う施設が設えられています。
コルサコフ修道院 (3).jpg
↑礼拝を行う場所の天井が低いので、建物の入口に視える塔のような構造物は後から設えられたのだと思われました。

綺麗な場所なので、何となくこの場所でのんびりしてしまいましたが、お祈りに訪れる人達が散見しました。序でに、礼拝を行う聖堂の直ぐ隣には聖書や正教に関する書籍や色々なモノを売る売店も在りました。

この日本領事館の遺構であると伝えられる石垣については、コルサコフ歴史郷土博物館の館長さんによる市内案内に同行した際に御話を聴きました。「ロシアはもとより、色々な国々で多くの人に知られたロシアの作家が、隣国日本の人達と友好的に交流をしていたという出来事が、当地コルサコフで在ったというのが嬉しいと思う」と仰っていたのですが、これには大賛成です。そしてそこは、「心の平安を求める」というような施設になっていて、設えられた庭に季節の花が咲いていて美しい様子が視られます。

海上からクリリオン岬を望む―『サハリンの涯へ』ツアー(2017年08月19日)

<На краю Сахалина>(ナ クラユ サハリナ)なるツアーが在ることを知りました。「サハリンの涯(はて)へ」というような名前が冠せられています。

「サハリンの涯」?クリリオン岬です!宗谷岬の対岸、約43km先に在る場所です。稚内から望む「サハリンの島影」というものは、このクリリオン岬の辺りに他なりません。

クリリオン岬の周辺、更にクリリオン岬へ通じるサハリンの南西海岸の辺りに関しては、樺太時代までは村落が点在していた場所ながら、現在では住民も殆ど無く、陸路でクリリオン岬に至るとなれば長い道程の旧道のような所、林間に出来た道のような所を越えて向かうことになり、なかなかに大変で在ると聞きます。「一寸、行ってみたい」という雰囲気ではありません。

他方、海路でクリリオン岬が視える辺りへ進み「"サハリンの涯"!」と眺めて来るというのは、船が用意出来れば容易なのです。そこで登場したツアーだといいます。

ツアーは、朝にユジノサハリンスク駅前から送迎車で出発し、ネベリスク地区のゴルノザヴォツクに在る船着場へ向かい、そこで小さなモーターボートに乗船し、その船でクリリオン岬を海上から眺め、クリリオン岬を眺めた後、クズネツォフ岬辺りのカモイと呼ばれる砂浜に上陸し、少しのんびりと過ごし、やがてボートで再び出発し、ゴルノザヴォツクの船着場に引き返し、また送迎車でユジノサハリンスクへ引揚げるという内容です。朝8時に出発して、午後8時前に帰着というような「丸1日」のツアーで、料金は7500ルーブルです。

↓これがその『サハリンの涯へ』ツアーの船上から望んだクリリオン岬です。近付く前に、「手持ちのスマートフォンが通信を受けると、"国際ローミング"の適用で高額な請求が生じる場合が在るので、機器の調整または電源を切るなどしてください」と船長が案内をしてから接近するような場所です。
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↑画の右奥がアニワ湾、船が停止している辺りがラペルーズ海峡(宗谷海峡)、船がこの位置まで南下して来たサハリンの南西海岸はタタール海峡です。船が停止している辺りは「日本海上のロータリー交差点」のようなポイントということになるでしょうか?

↓望遠で眺めてみると、左側に灯台が在って、国境警備関係の施設らしきモノが散見する状態です。岬に上陸することは叶いません。
『サハリンの涯へ』ツアー (2).jpg
↑それでも「この位の近さ」でクリリオン岬を眺められるのは、少し感動します。

実はこの海域では、条件が好い場合には宗谷辺りの陸地の影や、遠くに聳え立つ利尻富士が視える場合が在ると聞きました。が、この日は水蒸気で煙った様な状態で、そういう遠景は視えませんでした。というよりも、少し沖合に在るモネロン島の影にも期待していましたが、それも残念ながら視えない状態でした。

やがて、ツアーの一行が「うわっ!?」と驚くことになったのですが、文字どおり「瞬時」に白い霧が立ち込め、見る見る間にクリリオン岬を覆ってしまい、「視界が悪くなってしまわない間に引揚げましょう」と船は直ぐに北上しました。

クリリオン岬に視えていた灯台ですが、これは1875年の<樺太・千島交換条約>でロシアがサハリン全土を領有していた時期、霧が発生し易く潮流も複雑なクリリオン岬周辺海域での船舶航行の安全性を向上させようと、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに築かれていた灯台―現在、同地には再建されたモノが在るらしいです。―の例に倣って建設を行ったのが起源であるといいます。クリリオン岬に往時の建物は既に無く、現存しているのはその後に建てられたものであるとのことです。

クリリオン岬の俄かな霧には驚きましたが、この日は大変な好天に恵まれました。

↓鏡面のようにもなっていた海が空の色を跳ね返して蒼く輝き、緑に覆われた丘陵状の地形が陽光を受けて独特な存在感を示しています。
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↓霧のクリリオン岬から少し北上すると、霧が気にならなくなって、青空が戻りました。
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↑相当に古い事故船の残骸のようで、以前はもっと「船らしい」細長い形状だったといいますが、状態は「不思議な"現代前衛芸術"の作品?」という様相です。何か「朽ち果てて自然に飲み込まれつつある」という感で「海鳥達の巣」のようになっていました。

↓事故船の残骸の近辺では、アザラシ達が棲んでいる場所も見受けられました。
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↑「どういう訳か、彼らは音楽好きらしい...」と船長が船上でMP3プレーヤーのスピーカーでボリュームを少し上げると、泳いでいた一部のアザラシ達が船の方を向き、「何となくこちらに?」という動きを見せました。乗客達は大笑いでした。

この後、船はクズネツォフ岬の少しだけ南に在る砂浜に向かい、ツアー一行は上陸しました。

↓突き出して視えているのがクズネツォフ岬です。
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↑この場所では、予定の時間を多少オーバーしてのんびりと過ごすことになりました。素晴らしい天候だったのです。

↓ツアーで使ったのは、こういう小型船です。海釣りをするような方には、何となく馴染みが在るでしょうか?日本製の小型ボートで、船長によれば「40ノットは出る」という代物です。鏡面のように輝く海を、多少跳ね上がるような動きも見せ―筆者は「アクション映画のワンシーンのようだ」などと思っていました。―ながら疾駆しました。
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↑これは北海道内の紋別で購ったモノということでしたが、ゴルノザヴォツクの船着場に出入りしていたボートの多くが、こういうような日本の小型ボートでした。この船の外観にはそういうモノは視えませんが、船着場で視掛けた船の中にはハッキリと日本語のカタカナや漢字が船体に書かれているものさえ在りました。

船は「6名で満員」です。後部に4人並んで座り、船長の操縦席が在って、その操縦席の脇に1人座ることが可能です。「あなたはここ...」と割り当てられたのが、その「操縦席の脇」でした。外の写真は撮り悪く、停船時のみに限定されてしまいましたが、居住性は「風防の中」なので悪く在りませんでしたし、何やらの無線の声が聞こえて「国境周辺の海を疾駆!」という臨場感が愉しいと思えました。

「観光ツアー」と聞いた時に何となく思い浮かべるのは、「便利で快適」な状況であり、「"観光地化"した景勝地」という感ですが、このツアーでは「便利で快適」な何かが在るでもない状態です。"樺太時代"には幾つも村落が連なっていた沿岸なのですが、現在では「昔の村の建物跡と見受けられる石の基礎が在るんだ...」と上陸ポイントでのんびりしていた時に船長が話題にしていたような、「人が住んでいた経過こそ在るが、現在は誰も住んでいないような場所」が延々と続いている場所に入って行く状態です。

「高速艇で疾駆」とでも言えばカッコウ好いかもしれませんが、或いは「万人向けでもない」というのは事実であると思います。何となく「一寸した"探検隊"に参加」という気分にもなるような感です。「純粋に」景色を愉しんで、上陸ポイントでは「何も無い所でのんびりする」という按配です。ハッキリ言って、天候が悪ければ"苦行"に近いモノが在るかもしれません。

それでも一緒にツアーに参加した皆さん―筆者自身を含めて5名。筆者以外はサハリンの人達で、女性3名と男性1名。―は「サハリンにも未だこんな場所!!」とか「私達だけがここに!!」と上陸ポイントでかなり率直に感動していたり、「水温は20°Cに届かない...15°C位??」を意に介さずに海に入ってみたり、語らったり―それは一部仲間に入れて頂きました。―という感じで、何か「一味も二味も違う楽しみ方」に接したような感じもしました。

ユジノサハリンスク・ネベリスク間の道路が大幅に改善されて往来が速やかで快適になったことから、地元では「ネベリスク地区への来訪者の増加」に期待を寄せています。「ネベリスク地区には風光明媚な場所が多く、様々なアクティヴィティーにも好適である」という話しは聞いていますが、実際にそういう様子を視たという程でもありません。「ボートで沿岸を疾走し、クリリオン岬に至る」というツアーに参加してみるというのは、或いは「一寸様子を視る」ということには好適な経験でした。

↓それにしてもこういうような景色を視られたのは、率直に嬉しい経験でした。
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"さいはて"と言われるような稚内の少し先に新たな"涯"が在る、「境界の向こうに続くモノ」を実見したという、なかなかに好い経験、忘れ難い経験をすることが叶いました。

↓今般のツアーを催行した会社のウェブサイト(ロシア語)
>>АДРЕНАЛИН-ТУР | ГИД ПО САХАЛИНУ И КУРИЛАМ

旧 王子製紙豊原工場(2017年08月14日 & 17)

ユジノサハリンスクの東寄りな辺りを南北に貫くミール通を北上し、ブマージナヤ通と交差する辺りまで進みます。

豊原時代に「南1丁目、南2丁目...」と「北1丁目、北2丁目...」との境目で在ったというサハリンスカヤ通を越えて北へ進むと、少しずつ"郊外"というような雰囲気が増して行くような気もします。そういうような気分が沸き起こり始める辺りでブマージナヤ通と交差し、ユジノサハリンスク市内等に多くの店舗を展開するチェーンスーパーが視えます。

↓その辺りで視えるのがこういう光景です。
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↑ミール通の住所は、都心部という感じの辺りでは「3桁」なのですが、何時の間にか「2桁」になっています。そして古く背が高い構造物が建っている様子が視えます。

このミール通から覗く、古く背が高い構造物は「王子製紙豊原工場」の遺構です。

「王子製紙豊原工場」は1917(大正6)年に起こったそうです。林産資源に恵まれた樺太には、チップ製造、製紙のために幾つかの製紙会社が工場を起こしました。やがて昭和に元号が切り替わった少し後に製紙業界の再編が起こり、「大王子製紙」とも呼ばれた「シェア8割以上」という会社が登場し、樺太各地の工場は「王子製紙しろまるしろまる工場」という具合になって行きました。

工場の遺構が視えるブマージナヤ通の「ブマージナヤ」は「紙」を意味する形容詞です。「王子製紙豊原工場」が在って、ソ連時代になって以降も製紙工場であったという経過がこの通の名前の由来であると視られます。

↓ブマージナヤ通を進み、工場の遺構に近付きました。工場の遺構の辺りは、現在では自動車整備や機械修理等を手掛けていると見受けられる幾つかの企業が使用していて、間近に寄ることは基本的には出来ません。これが最も間近に寄ることが出来た場所です。
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↑これは"製薬塔"と呼ばれていた構造物で、チップを加工して製紙を行っていく過程で使用する薬剤を生成するための施設だったそうです。

現在でも「それなりに目立つ」程度の高さになっている塔の遺構です。樺太時代には、現在以上に目立ったと想像できます。

↓林立する煙突です。
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↑現在では煙突として機能しているようには見えません。

筆者の私事になってしまいますが、既に他界して久しい祖父母が昭和の初め頃に豊原に住んでいた時期が在るらしく、祖母と少し話した内容を総合すると、どうやら「若き日の祖父母」はこの工場が視えたような辺りで暮らしていたのだと想像出来る状況なのです。この「遺構」を眺めて、「現に工場だった」頃に同じ場所を眺めたかもしれない祖父母達、そしてそんな世代の人達が暮らしていた時代を何となく思っていました。

こうした古い時代の遺構に関しては、「土地に積み上げられた"時間"」を感じます。