女性・女系天皇が否定される要因
果たしてそんなことがあったのだろうか。
孝謙・称徳天皇と道鏡の野望は、和気清麻呂が宇佐神宮から、「臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ」という八幡神の託宣をもたらしたことで潰えたともされる。臣下を天皇の位に就かせることは伝統にはないことで、必ず、天皇の系譜に属する者を即位させなければならないというのだ。
仮に、孝謙・称徳天皇と道鏡のあいだにただならぬ関係があったとしても、両者の間に子どもがいたわけではない。孝謙・称徳天皇は、生涯にわたって子をもうけてはいない。
したがって、道鏡が皇位に就いたとしても、さらにその跡を継ぐ者がいないわけで、孝謙・称徳天皇の試みは、皇位継承という観点からは矛盾している。それは、寵愛が深かったからだと解釈されてきた。
孝謙・称徳天皇がこのようにとらえられてきたことは、女性・女系天皇が否定される一つの要因になってきた。
しかし、孝謙・称徳天皇の真意がどこにあったのか、これまでその点については真剣に議論されてこなかったように思われる。
世紀の女帝を理解するポイント
今年4月には寺西貞弘『道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実』(ちくま新書)が刊行され、道鏡に改めて関心が集まった。著者は、道鏡が孝謙・称徳天皇によって太政大臣禅師や法王という高い地位を与えられたことについて、官僚の最高位である太政大臣とされていても、政治にいっさいかかわることなく、たんに天皇の仏道修行を指導する立場にあっただけだと解釈している。
ただこれは、道鏡の存在を軽視するものであり、さらには孝謙・称徳天皇が道鏡を皇位につかせることで何を意図したのか、それを無視する議論であるように思われる。
というのも、『道鏡』の本では参考文献として活用されていないのだが、2014年に刊行された東京女子大学名誉教授の勝浦令子『孝謙・称徳天皇 出家しても政を行ふに豈障らず』(ミネルヴァ日本評伝選)という評伝では、常識的な理解とはまったく異なる孝謙・称徳天皇の構想が詳細に論じられているからである。私もこの評伝を読んで、認識を新たにした。
一つ重要なポイントは、孝謙・称徳天皇の父が聖武天皇で、母が光明皇后であったことにある。