顧邵
顧邵 | |
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後漢 豫章太守 | |
出生 |
中平元年(184年) 揚州 呉郡 呉県 |
死去 |
建安19年(214年) 揚州豫章郡 |
拼音 | Gù Shào |
字 | 孝則 |
主君 | 孫権 |
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顧 邵[1] (こ しょう、184年 - 214年)は、中国 後漢末期の政治家。字は孝則[2] 。父は呉の丞相となった顧雍 [2] 。母は陸康の娘。弟は顧裕(顧穆)・顧済。子は顧譚 [3] ・顧承 [2] 。正室は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。継室は孫策の娘[2] 。
生涯
[編集 ]少年の頃から博識で知られており、母の弟の陸績と並び称され、陸遜・張敦・卜静は顧邵に及ばないと言われた。顧邵と親交を結ぶために四方から人が訪れ、名声は遠方まで届いた。孫権はその名声を聞き、孫策の娘を顧邵に嫁がせた。
建安15年(210年)、龐統は周瑜の棺を届け喪を弔うために呉へ赴いた。顧邵は陸績・全琮らと共に龐統と親交を結び、龐統から 「駑牛能負重致遠(足が遅いが力のある牛)」と評された。
同年、27歳で出仕し、孫鄰の後任として豫章 太守となった[2] 。陋習を廃止し、優秀な人材は身分を問わず抜擢するなど、優れた治績を挙げた。
優れた人物眼を持ち、丁諝・張秉・吾粲・殷礼を見出して孫権に推挙した。
建安19年(214年)、太守在任中に31歳で死んだという[2] 。
潁川の周昭は、歩騭・諸葛瑾・厳畯・張承・顧邵の人物を比較し、賞賛する書物を残した。
逸話
[編集 ]南朝斉の殷芸が集めた『小説』には顧邵の話が収録されている[4] 。
顧邵は豫章太守となった後 、学校を建てて重んじ、寺を淫祠であるとして取り壊した。廬山の廟を取り壊す際には、周りの人は顧邵を諫めたが、顧邵は聞き入れなかった。夜、突然訪問客が来る声がして怪しく思っていると、住職のような格好をした人物が現れ、自分は廬山君であると名乗った。顧邵は席を勧め、鬼のような雰囲気を持った客は入ってきて座った。顧邵は春秋左氏伝を愛読していたので、二人は一晩中それについて話し合った。顧邵が「晋の景公の夢(病膏肓に入るの故事)に出て来た大厲は昔も今も同じように存在しているだろうか?」と問うと、廬君は笑いながら「大は今も在るけれども、厲はそうではない」と答えた。そのうち灯が尽きてしまったが、顧邵は改めて着けず左伝を燃やして灯代わりとして論議を続けた。客は頻りに暇を乞うたが、顧邵は引き止めた。客は本当は顧邵に危害を加えようと訪ねたが、彼が静かな態度で隙がなかったので和解を求めに来たと言い、廟を元の通りに復元してほしいと熱心に頼んだ。顧邵は笑って取り合わなかった。客は怒って席を立ち、「今日は君に復讐することが叶わなかった。三年の内に君は病気になるだろう。その時に乗じて復讐を遂げよう」と言った。顧邵は左氏伝論を続けようとしたが、客は姿が見えなくなってしまった。3年後、果たして顧邵は病を得、夢でこの廬君が自分を撃ち、再び彼に寺の修復を勧めるのを見た。顧邵は断って「邪道は正道には勝てない」と答えた。まもなく死去した[5] 。
家系図
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参考文献
[編集 ]- 中国の思想刊行委員会 編『三国志全人名事典』徳間書店、1994年11月。
- 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※(注記)呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
脚注
[編集 ]魏志 (魏書) |
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蜀志 (蜀書) |
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呉志 (呉書) |
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