鈴木重晴
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鈴木 重晴
Portal:陸上競技
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選手情報 | |
国籍 | 日本の旗 日本 |
競技 | 陸上競技 |
種目 | 800m、1600mリレー |
大学 | 早稲田大学 |
生年月日 | (1934年04月05日) 1934年 4月5日 |
生誕地 | 秋田県 |
没年月日 | (2012年02月27日) 2012年 2月27日(77歳没) |
死没地 | 東京都 府中市 |
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鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年 4月5日 – 2012年 2月27日 [1] )は、日本の陸上競技選手、指導者。
経歴
[編集 ]1946年、学制改革期の旧制秋田中学校[注釈 1] (在学中の1948年に秋田南高等学校と改称[3] 。現在の秋田県立秋田高等学校)に入学[2] 。楢山の歯医者であった叔父宅から通学しており、鈴木自身も歯医者を目指していたという[2] 。1年生より陸上競技を始め、3年生の折に400mと800mで全県大会・東北大会に優勝して駒を進め、インターハイで両種目3位[2] 。東西対抗400mで全国優勝を果たした[2] 。
早稲田大学に進学し競走部に入部[2] 。大学在学中に中距離4種目(400m、800m、1000m、1600mリレー)で日本新記録を立てた[2] 。また、箱根駅伝にも4年連続で出場、区間賞2回[2] 。中距離から長距離までこなすランナーとして知られた[2] 。
1952年、第7回国民体育大会の1500mで優勝[4] 。1954年にはアジア大会(マニラ)に派遣された[4] 。
1956年メルボルンオリンピックで、男子800メートル競走と男子1600メートルリレー走に出場した[5] 。
1956年早稲田大学商学部卒[6] 。社会人となった後も、中村清監督の下で長年コーチを務めた[2] 。中村の勇退後[6] 1984年から2003年までの19年間、早稲田大学競走部の監督を務めた[1] [7] 。
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]- ^ a b "(おくやみ)鈴木重晴氏が死去 メルボルン五輪陸上代表". 日本経済新聞 電子版. Nikkei. 8 September 2017閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 長野佳司 (2014年9月1日). "初の母校五輪代表選手 鈴木重晴先輩の足". 文武両道...若かりし日々 (1). 秋田県立秋田高等学校同窓会. 2020年2月7日閲覧。
- ^ "学校沿革概要". 秋田県立秋田高等学校. 2020年2月10日閲覧。
- ^ a b "秋田県のスポーツ史". あきた(通巻41号). 秋田県 (1965年10月1日). 2020年2月7日閲覧。
- ^ "Shigeharu Suzuki Olympic Results". Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月30日閲覧。
- ^ a b 金哲彦 (2014年8月20日). "【連載】『エンジの記憶』 第3回 金哲彦". 早稲田スポーツ. 早稲田スポーツ新聞界. 2020年2月7日閲覧。
- ^ "歴代部長・監督". 早稲田大学競争部. 2020年2月12日閲覧。
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