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酒井忠美

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曖昧さ回避 その他の「さかいただよし」の同名の人物については「Wikipedia:索引 さかい#さかいた」をご覧ください。
曖昧さ回避 安房勝山藩の第6代藩主・酒井忠和の長男の酒井忠美(忠貞)とは異なります。
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(2020年11月)
 
酒井忠美
酒井忠美
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 安政5年10月29日(1858年 12月4日)
死没 大正12年(1923年)3月13日
改名 生次郎(幼名)、忠美
墓所 芝区青松寺東京都 府中市 多磨町多磨霊園
官位 従五位下大和守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
安房 勝山藩
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠一、母:不詳
酒井忠禄の娘・久宇
忠勇 忠尚福島茂富夫人、三井慶夫夫人
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酒井 忠美(さかい ただよし)は、江戸末期の大名、明治・大正期の日本華族

安房国 勝山藩の第9代(最後)藩主、初代(最後)知藩事を務めた。

略歴

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安政5年(1858年)10月29日、第8代藩主・酒井忠一の長男として生まれる。万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下、大和守に叙任する。

明治2年(1869年)5月、同名の藩(越前 勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。6月には版籍奉還により知藩事となり華族に列する。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし11月の廃県により免職となった。

明治12年(1879年)、嫡男の忠勇に家督を譲って隠居する。大正12年(1923年)3月13日に死去、享年66。なお、明治17年(1884年)に忠勇は子爵となるものの、明治30年(1897年)に偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している[1]


系譜

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父母

正室

子女

参考文献

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姫路剣片喰紋 忠国系雅楽頭酒井家9代当主(1860年 - 1871年)
宗家
別家

分家・支流

忠能系
忠寛系
忠交系
忠国系
忠稠系
重澄系
忠績系
忠惇系
酒井家安房勝山藩9代藩主 (1860年 - 1871年)
内藤家
酒井家
  1. ^ 松田敬之 2015, p. 315.

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