コンテンツにスキップ
Wikipedia

貞明公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"貞明公主" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2020年5月)
貞明公主
宗親一世
公主
出生年 万暦31年5月19日(1603年 6月27日)
没死年 康熙24年8月10日(1685年 9月8日)
実父 宣祖
実母 仁穆王后
配偶者 洪柱元
テンプレートを表示

貞明公主(ていめいこうしゅ、チョンミョンコンジュ、정명공주、万暦31年5月19日(1603年 6月27日) - 康熙24年8月10日(1685年 9月8日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖仁穆王后の娘。宣祖にとって、唯一の嫡女。また書道家としても有名だった。

第22代国王正祖から第24代国王憲宗は、彼女の血を引いている(正祖の生母の恵慶宮洪氏は、次男の洪萬容の玄孫に当たる)。また、正祖の側近の洪国栄、元嬪洪氏も彼女の血を引く(三男の洪萬衡の来孫に当たる)。そして、憲宗の母の神貞王后も子孫の一人である(曾祖母が恵慶宮の叔母にあたる為)。

生涯

[編集 ]

1603年、宣祖と仁穆王后の娘として生まれる。また、唯一の嫡女であることから、同じく唯一の嫡男で弟の永昌大君と溺愛される。

しかし永昌大君の誕生が災いの元となり、やがて正室所生の永昌大君を推す小北派と側室所生の31歳上の異母兄の光海君を推す大北派が国王の座を巡って対立する。1608年、父の宣祖が次期国王を決めずに崩御。永昌大君が2歳ということから光海君が即位し、小北派は一掃され、母と共に慶運宮に幽閉され、弟とも離された。1614年、永昌大君が幽閉先の江華島で殺されてしまう。祖父の金悌男が賜薬に処され、母の親族も処刑や流罪にされた。さらに母は大妃の地位を廃されて側室の身分に降格、西宮(ソグン)と呼ばれた。幽閉中は、母を慰めるために書道に励んだ。

1623年 3月13日、宮廷クーデターが発生(仁祖反正)、仁穆王后と公主は綾陽君(後の仁祖)を推す西人派によって、解放と共に名誉を回復。しかし、貞明公主は当時20歳で、結婚適齢期を過ぎていたため、夫選びを実施した。全国から集まった僅か9人の婚姻候補者の中から洪霙(ホン・ヨン、こう えい)の息子の永安尉洪柱元(ホン・ジュウォン、こう しゅげん、1606年 - 1672年)と婚姻する。さらに母の仁穆王后の依頼で、仁祖から広大な屋敷と土地を与えられた。その後、夫の洪柱元とは良好な関係を築いていき、7男1女を儲けた。

夫の洪柱元は、1672年に66歳で亡くなった。1685年 8月10日、彼女は83歳で死去した。彼女は、6人の王の時代を生き抜き、朝鮮一長寿の王女となった。

家族

[編集 ]

子女

[編集 ]

登場作品

[編集 ]

出典・脚注

[編集 ]
  • 『韓国時代劇で学ぶ人物大事典』2019年 キネマ旬報社
翼祖
度祖
桓祖
太祖
定宗
太宗
世宗
文宗
端宗

なし

世祖
徳宗
睿宗
成宗
燕山君
中宗
仁宗

なし

明宗

なし

宣祖
光海君

廃翁主

元宗

なし

仁祖
孝宗
顕宗
粛宗

公主(早世) · 公主(早世)

景宗

なし

英祖
真宗

なし

荘祖
正祖

公主(早世) · 淑善翁主

純祖
翼宗

なし

憲宗

公主(早世)

哲宗
高宗
純宗

なし

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /