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花山院長親母

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花山院長親母(かさんのいん ながちか の はは、嘉暦元年(1326年)頃 - 没年不詳)は、南北朝時代の女流歌人

概要

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出自[1] 及び本名は明らかでない。内大臣 花山院家賢の室で、長賢長親(耕雲)・簡中元要を生んだ。北朝で失脚した夫とともに南朝へ移り、正平後期以降の南朝歌壇で活躍。後年出家して春山と号する。

新葉和歌集』には女流歌人として最多の26首が入集した。同集の詞書によれば、家賢邸で催された百首歌に詠進(恋一・688など)、正平22年/貞治6年(1367年)家賢一周忌には後村上天皇贈答を交わし(哀傷・1378)、文中3年/応安7年(1374年)入した元要との離別を惜しんでいる(離別・531)。歌風はどれも二条派で、本歌取り掛詞などの修辞には優れているが、実感に即した歌が弱く、独特の情操を見出しにくいと評される。天授元年/永和元年(1375年)頃の『住吉社三百六十番歌合』にも出詠し、50歳になった心境を述懐した。元中3年/至徳3年(1386年)長親・師兼とともに『法門四十七首和歌』に詠進しているが、以後の消息は不明である。

脚注

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  1. ^ 『花山院家譜』は長親の母について「北畠中納言顕時養女、実ハ狩野貞長女」と注するが、その史料価値には疑問があり、にわかに信用できない。

参考

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