コンテンツにスキップ
Wikipedia

芝原城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、徳島県にあった芝原城について説明しています。その他の芝原城については「芝原城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"芝原城" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2019年2月)
logo
logo
芝原城
(徳島県)
城址と伝わる芝原八幡神社
城址と伝わる芝原八幡神社
城郭構造 平山城
築城主 久米氏
築城年 不明
主な城主 久米義広
廃城年 1553年(天文22年)
遺構 なし
指定文化財 未指定
位置 北緯34度05分33.7秒 東経134度27分50.2秒 / 北緯34.092694度 東経134.463944度 / 34.092694; 134.463944
地図
テンプレートを表示

芝原城(しばはらじょう)は、徳島県 徳島市 国府町芝原にあった日本の城

歴史

[編集 ]

築城年代は不明。徳島市北井上小学校の南方500メートルの高野山真言宗蔵珠院及び芝原八幡神社付近に位置する。遺構はまったく残っていないが、一帯は「芝原遺跡(徳島市No.119)」という弥生時代中世埋蔵文化財包蔵地であるため[1] 、埋没している可能性もある。

城主は久米氏がいたことが知られており、両細川家の乱などで1520年(永正17年)をはじめ、たびたび畿内に出兵した阿波国の国衆の中に久米氏の名が見られることから、この頃すでに阿波国の有力豪族の一つであったと考えられる。その後、1553年(天文22年)の久米の乱(槍場の義戦)で落城となる。

久米の乱・槍場の義戦

[編集 ]
詳細は「鑓場の戦い」を参照

1552年(天文21年)8月、阿波国を実質的に支配していた三好実休が阿波守護細川持隆を殺害した。そのため、時の芝原城主・久米安芸守義広は、実休を討つために兵を挙げた。

翌22年初めに野田山城(徳島市)主・野田内蔵助、英城(徳島市)主・仁木日向守高将、佐野須賀城(徳島市)主・佐野丹後守、蔵本城(徳島市)主・小倉美濃守らとともに軍事行動を起こし、実休の妹婿の一宮成祐を攻撃するなどしたが、やがて三好実休が3,000兵を率いて進撃してきた。

義広らは槍場(徳島市国府町東黒田)でこれを迎え討ったが、多勢に無勢、実休の軍に囲まれ、そのほとんどは討死した。これを久米の乱、または槍場の義戦という。このとき、芝原城も落城した。

脚注

[編集 ]

参考文献

[編集 ]

関連項目

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /