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織田信朝

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曖昧さ回避 織田信友」、「織田信与」、あるいは「織田信知」とは別人です。
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(2019年7月)
 
織田信朝
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年9月28日(1709年 10月30日)
死没 元文2年1月6日(1737年 2月5日)
改名 菊千代(幼名)、信朝
別名 右近(通称)
墓所 奈良県宇陀市大宇陀岩室の徳源寺
官位 従五位下 出雲守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
丹波 柏原藩
氏族 織田氏(信雄系高長流)
父母 :織田信休:生田氏
兄弟 信朝信旧長卿柳原光綱室ら
正室:松平宣富の5女
養子:信旧
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織田 信朝(おだ のぶとも)は、江戸時代中期の大名通称は右近。丹波国 柏原藩2代藩主。官位従五位下 出雲守。高長系織田家5代。

生涯

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宝永6年(1709年)9月28日、初代藩主・織田信休の次男として柏原にて誕生した。幼名は菊千代。

享保5年(1720年)4月1日、8代将軍・徳川吉宗御目見する。享保7年(1722年)12月24日、信休の死去により家督を相続する。享保8年(1723年)12月18日、従五位下・出雲守に叙任する。享保11年(1726年)3月18日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。

元文2年(1737年)1月6日、柏原において死去、享年29。柏原・徳源寺に葬られた。嗣子がなかったため、弟の信旧を養子とした。

内大臣烏丸光栄の添削を受けた和歌集『水月詠藻』(475首収録)が伝わっている。

系譜

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織田木瓜紋 信雄系高長流織田家5代当主(1722年 - 1737年)
織田氏 (平姓)

尾張国守護代家

伊勢守家
大和守家
因幡守家
藤左衛門家
弾正忠家

弾正忠家の分家・支流

信長流
信長
信忠流
信忠 - 秀信 - 絶家
信雄流
信雄
信良流
高長流
高長
長政
高家
高家分家
勝長流
勝長
津田家
信高流
信貞流
信貞 - 貞置
高家
貞則流
貞輝流
信勝流
信勝 - 信澄
昌澄流
昌澄 - 信高
信包流
信包
信当流
信治流
信治
柘植家
長益流
長益
長孝流
長政流
尚長流
織田氏柏原藩2代藩主 (1722年 - 1737年)
信包流織田家

1650年から1695年まで公儀御料

信雄流織田家

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