細川春倶
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時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 明応9年(1500年) |
官位 | 中務少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 細川氏野州家分家(賢春流) |
父母 |
父:細川教春 養父:細川賢春 (叔父) |
兄弟 | 勝之、政春、春倶、兼子(二条政嗣正室)、女子(日野政資室)、女子 |
子 | 国豊、尹賢、高基、四郎左衛門佐[1] |
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細川 春倶(ほそかわ はるとも)は、戦国時代の武将。細川野州家分家の当主。
生涯
[編集 ]野州家第3代当主細川教春の子として生まれる。叔父(教春の弟)で分家をたてていた細川賢春(かたはる)の養嗣子としてその跡を継いだといわれる[2] 。
明応2年(1493年)の明応の政変以降、足利義澄を擁立する細川政元と、足利義稙を擁立する畠山尚順・大内義興らとの対立という状況が生まれた。
これについて、伊予国 守護の河野家は大内家に敵対する大友家との婚姻関係があり、文亀元年(1501年)に幕府(将軍は義澄)が大内家討伐を命じた際には、大友・河野両家にも動員がかかっている。このように一見すると河野家は親義澄・政元派にも見えるが、河野家は分家である予州家との対立も内包するなどの複雑さもまた有していた。
春倶が何時から伊予に在国していたかはわからないが、細川阿波守護家の行動などを合わせて見ていけば、その事情なども想像しうるかと思われる。
明応9年(1500年)に伊予国で死去。その事情は細川野州家の分郡の一つに新居郡があることからもうかがえるという。
晴俱の嫡男とされる国豊は後に細川高国に従って備中守護に任ぜられているが、その子である九郎二郎が永正12年(1515年)に19歳の若さで自害して家系が断絶したとされる[3] 。
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 末柄豊「妙心寺への紫衣出世勅許をめぐって-鄧林宗棟を中心に-」『禅文化研究所紀要』28号(2006年2月)ISSN 0289-9604
- 西尾和美「中世伊予河野氏の婚姻関係と『予陽河野家譜』-西国武士の家譜を読む-」『松山東雲女子大学人文学部紀要』6(1998年)NAID 110000549226