コンテンツにスキップ
Wikipedia

竹腰勝起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"竹腰勝起" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2020年10月)

竹腰 勝起(たけのこし かつおき、元文3年9月6日(1738年 10月18日)- 寛政元年8月19日(1789年 10月7日))は、尾張藩附家老美濃 今尾藩の第6代当主。

尾張藩主徳川宗勝の五男。母は妙観院。初名は勝紀(かつのり)。正室は脇坂安興の娘。子に竹腰睦群(長男)、井上正紀(次男)。官位は従五位下、山城守

藩主の子として生まれたが竹腰正武の養子となり、宝暦4年(1754年)4月に将軍の徳川家重に初めて拝謁し、12月には従五位下・壱岐守に叙任。先代の正武宝暦9年(1759年)12月8日に死去したため、同年12月28日に3万石の跡を継ぎ、山城守に転任。明和2年(1765年)4月に徳川家康の150年忌のため、尾張藩主徳川宗睦の名代として日光山に参詣[1] 天明4年(1748年)8月、美濃国で3,000石を預けられる。天明5年(1785年)3月1日、長男の睦群に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)8月19日に死去した。法号は映徳院殿朝散大夫諦誉豊堂聴音大居士。墓所は東京都 港区 虎ノ門天徳寺

系譜

[編集 ]

父母

正室

子女

脚注

[編集 ]
  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X
竹腰家 今尾領(今尾藩)6代領主(藩主/藩知事)(1759年 - 1785年)
市橋家
竹腰家

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /