江上家種
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文禄2年2月2日(1593年 3月4日)[1] |
改名 | 又四郎(幼名)、家種 |
別名 | 権兵衛尉(通称) |
墓所 | 種福寺(佐賀県神埼市)[2] |
官位 | 武蔵守 |
氏族 | 龍造寺氏、江上氏 |
父母 |
父:龍造寺隆信、母:龍造寺家門娘 養父:江上武種 |
兄弟 |
龍造寺政家、龍造寺隆平、家種、 後藤家信、玉鶴姫 |
妻 | 大村純忠娘 |
子 |
智子、佐野茂義、勝種 養子:鍋島勝茂 |
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生涯
[編集 ]龍造寺隆信の次男として誕生。江上武種の養子となって江上氏の家督を継ぎ、父から肥前国 神埼郡 勢福寺城主に任じられた。父の命令で各地を転戦し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにも参加している。
天正17年(1589年)、鍋島直茂が佐賀城に移ったため、代わって蓮池城主となる。なお、このときに鍋島直茂の嫡男・勝茂を養子として迎えている(のち解消)。
威風堂々とした体格で、特に武勇に優れていたといわれており、兄弟の中で最も父、隆信の才を受け継いでいた事が窺える。
系譜
[編集 ]家種の死後、子たちは江上姓を捨て、長子・茂美(佐野右京亮)は佐野氏を名乗り、次子・勝種(勝山大蔵)は勝山姓を名乗った。茂美の子孫は佐賀藩士佐野氏の祖となった。勝種は龍造寺伯庵を擁して幕府に龍造寺家の復興を訴えるも敗訴。正保元年(1644年)に会津藩保科家預かりとなり、江上氏に復姓した。慶安元年(1648年)に会津藩に召し抱えられ、子孫は会津藩士として続いた。
脚注
[編集 ]- ^ 山本常朝『葉隠』中(三教書院、1937年)167頁
- ^ a b c "かんざきを歩こう No6「勢福寺城跡と城下町遺跡コース」". 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」. 2025年1月1日閲覧。
- ^ 栗原荒野 編『校注葉隠』1975年、618-619頁。doi:10.11501/12225203 。https://dl.ndl.go.jp/pid/12225203/1/376 。