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水野隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、サッカー選手について記述しています。小惑星を発見したアマチュア天文家の同名の人物については「水野隆 (天文家)」をご覧ください。
曖昧さ回避 水野卓史」、「水野貴史」、あるいは「水野遵」とは別人です。
水野(旧姓:徳弘) 隆
名前
カタカナ ミズノ タカシ
ラテン文字 MIZUNO Takashi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1931年04月28日) 1931年 4月28日
出身地 兵庫県 [要出典 ]
没年月日 不詳
身長 163cm[1]
選手情報
ポジション FW
ユース
日本の旗 関西学院高等部
1950-1953 日本の旗 関西学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1954-? 日本の旗 湯浅電池
日本の旗 全関学/関学クラブ
代表歴
1953-1959 日本の旗 日本 1 (0)
監督歴
1962-1963  日本ユース
1. 国内リーグ戦に限る。
しかくテンプレート(しかくノート しかく解説)しかくサッカー選手pj

水野 隆(みずの たかし、旧姓:徳弘(とくひろ[2] )、1931年 4月28日 [2] - 没年不明)は日本の元サッカー選手サッカー指導者。ポジションはFW

経歴

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甲陽学院中学校在学中よりサッカーを始め、同中学4年修了後の1948年に関西学院高等部へ編入[1]

1950年に関西学院大学に入学してサッカー部に入部した[1] 。在学中の1953年に第33回天皇杯全日本サッカー選手権大会で全関学の一員として優勝に貢献。また、同年にドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)の日本学生選抜として井上健木村現平木隆三らと共に選出され、大会に出場した。

1954年に大学卒業後は湯浅電池に入社。なお、大学卒業後もサッカーを続け、1955年の第35回天皇杯全日本サッカー選手権大会で全関学の一員として、1958年の第38回天皇杯全日本サッカー選手権大会で関学クラブの一員としてそれぞれ優勝した。

日本代表としては1953年11月22日に大阪球場で行われたユールゴーデンIF(スウェーデン)戦で初出場[3] し、1954年アジア競技大会の日本代表にも選出され[4] 、1955年10月9日に東京後楽園競輪場で行われたビルマ代表戦で国際Aマッチ出場を果たした[5]

引退後は指導者の道へ進み、日本ユース代表、日本B代表、中京大学体育会サッカー部などの監督を務めた。また愛知県サッカー協会常任理事としてサッカーの普及にも尽力した。

所属クラブ

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代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(1955)


日本代表 国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1953 0 0 1 0 1 0
1954 0 0 0 0 0 0
1955 1 0 0 0 1 0
1956 0 0 0 0 0 0
1957 0 0 0 0 0 0
1958 0 0 0 0 0 0
1959 0 0 1 0 1 0
通算 1 0 2 0 3 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1955年10月09日 日本の旗 東京都 後楽園競輪場  ビルマ しろさんかく0-0 竹腰重丸 国際親善試合

指導歴

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出典

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  1. ^ a b c 甲陽だより(第75号) (PDF) 2007年2月28日、2014年8月22日閲覧
  2. ^ a b c 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、571頁。
  3. ^ "[1953年11月22日 大阪・難波球場]". 日本サッカー協会 . 2014年8月22日閲覧。
  4. ^ "第2回アジア競技大会(マニラ)". 日本サッカー協会 . 2014年8月22日閲覧。
  5. ^ "[1955年10月09日 東京・後楽園競輪場]". 日本サッカー協会 . 2014年8月22日閲覧。

外部リンク

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