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毛利広房

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(2012年5月)
 
毛利広房
時代 南北朝時代初期
生誕 正平2年/貞和3年(1347年)
死没 元中2年/至徳2年(1385年)[1]
改名 亀若丸[1] →広房
墓所 広島県 安芸高田市吉田郡山城
官位 中務大輔、治部大輔[1]
氏族 毛利氏
父母 父:毛利元春 [1] 、母:不詳
兄弟 広房[2] 、厚母元房[2] 、広内[2] 、中馬忠広[3] 福原広世 [3] 、元淵[3]
光房 [1]
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毛利 広房(もうり ひろふさ)は、南北朝時代安芸国国人領主 毛利氏当主。

生涯

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南朝:天授7年、弘和元年/北朝:康暦3年、永徳元年(1381年)に、父・毛利元春より吉田荘地頭職半分を譲られている。これと同時に毛利家の家督を相続したものと推測される。家督を継承して後の南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)に、出陣先の西条にて討死した。

この時、広房には懐妊中の妻がおり広房の死後に男児を出産した。男児の成長までは祖父にあたる元春が後見することになり、この男児が成人後、毛利光房と名乗って家督を継いだ。

脚注

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  1. ^ a b c d e 時山弥八編 1916, p. 66.
  2. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 64.
  3. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 65.

参考文献

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安土桃山時代まで
江戸時代
明治以降

分家・支流

徳山家
長府家
清末家
右田家
厚狭家
吉敷家
阿川家
大野家
五郎男爵家

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