横瀬成繁 (室町時代)
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 |
文亀元年8月8日(1501年 9月20日)? または永正8年8月8日(1511年 8月31日) |
別名 | 新六郎(通称)、業繁、雅楽助 |
戒名 | 霊雲寺義山宗忠居士 |
墓所 | 群馬県 太田市金山町の金龍寺 |
官位 | 信濃守 |
主君 | 岩松家純、尚純、昌純 |
氏族 | 横瀬氏 |
父母 | 横瀬国繁 |
子 | 景繁 、繁通 |
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横瀬 成繁(よこせ なりしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。横瀬氏5代当主。岩松氏の重臣で筆頭家老。
生涯
[編集 ]横瀬国繁の子として誕生。
父・横瀬国繁と共に岩松家純の重臣として活動し、文明3年(1471年)の下野国攻めにも参戦している。家純とその孫・尚純との和解にも尽くし、岩松氏の後継者に迎え入れた。長享2年(1488年)、父の死により家督を継いで岩松氏執事となった[1] 。
明応4年(1495年)、尚純とその父・明純が長尾房清の支援を受け、成繁の金山城に攻め込むが金山城を死守、古河公方・足利成氏の仲介により和議を結んだ。この結果、尚純は隠居、子の昌純が岩松氏当主となり、成繁が権力を握った。
文亀元年(1501年)、死去。嫡男・景繁が継いだ。没年は永正8年(1511年)とも。