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森忠洪

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(2019年3月)
 
森忠洪
時代 江戸時代中期
生誕 享保13年(1728年)
死没 安永5年6月2日(1776年 7月17日)
改名 五郎作(幼名)、忠洪、秋香亭傘路(法号)
戒名 大盛院殿以徳善隣大居士
墓所 東京都 港区東麻生の瑠璃光寺
官位 従五位下 和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
播磨 赤穂藩
氏族 森氏
父母 森正典、森氏または各務利直、側室久昌院
森政房
井上正之、西宮氏
忠興 忠賛、政子、森政宣
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森 忠洪(もり ただひろ)は、播磨国 赤穂藩5代藩主。

略歴

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享保13年(1728年)、藩主森家の家老・森正典の子として生まれる(生年は享保16年(1731年)10月23日とも、また各務利直の七男ともいわれる)。

延享3年(1746年)12月8日に第4代藩主・森政房が死去したため、その養子となる。延享4年(1747年)2月6日に家督を継ぎ、12月15日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。生来から学問好きだったため、藩財政難打開を目指して文人を数多く登用し、その文人による学問的な藩政改革を行なった。主に塩田開発を行なったが、この改革は一時的に成功し、後に「大盛院(忠洪の戒名)時代」と称されている。

明和6年(1769年)7月23日、長男・忠興に家督を譲って隠居し、以後は秋香亭傘路と号して俳諧の道を歩み、「秋香亭句集」を残している。安永5年(1776年)6月2日に死去した。享年49。

系譜

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脚注

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  1. ^ 3代藩主長生、4代藩主政房の実父。各務家は森家と血縁が深い。
森氏赤穂藩5代藩主 (1747年 - 1769年)
池田家
浅野家
永井家
森家

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