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梁瀬長太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やなせ ちょうたろう

梁瀬 長太郎
1924年撮影
生誕 1879年 12月15日
日本の旗 群馬県 碓氷郡 豊岡村(現・高崎市)
死没 (1956年06月11日) 1956年 6月11日(76歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業
職業 実業家
子供 梁瀬次郎(二男)
梁瀬孫平(父)
親戚 漆山一(娘婿)
近山金次(娘婿)
尾澤金藏(娘婿)
鹿島昭一(義孫)
稲山孝英(義孫)
梁瀬泰孝(曾孫・養孫)
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梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう、1879年明治12年〉12月15日 - 1956年昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家位階正六位勲等勲五等

大阪商船株式会社三井物産株式会社での勤務を経て、梁瀬商会社長、輸入自動車協会会長(初代)、梁瀬自動車株式会社社長(初代)、梁瀬商事株式会社社長(初代)、梁瀬自動車工業株式会社社長(初代)、梁瀬自動車株式会社会長(初代)などを歴任した。

概要

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群馬県 碓氷郡 豊岡村出身の実業家である。1879年明治12年〉12月15日に生まれ[1] 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。ヤナセの創業者として知られる。関東大震災を機に売上げを伸ばす。ヤナセの前身である梁瀬自動車の初代社長や、輸入自動車協会初代会長、全国自動車整備組合理事長、日本機械輸入協会会長、山王ホテル 取締役を歴任した[2] 1956年昭和31年〉6月11日に死去した[1] )。

人物

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生い立ち

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群馬県 碓氷郡 豊岡村(現在の高崎市)に、梁瀬孫平の長男として生まれる。梁瀬家の先祖は甲州 武田家遺臣であり、武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ高崎の一歩手前の豊岡村に土着して農業、精米、養鯉などを家業としていたという[3]

豊岡村の尋常小学校、碓氷郡八幡村高等小学校を経て、前橋市の群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学[4] 。その後単身上京し、群馬県尋常中学校から東京築地の東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に転校した[4] 。故郷の豊岡村から自分で農産物を持ってきて、下宿の前で近所の人に安く売るなどして、学費と部屋代、本代をまかない、苦学して卒業した[5]

1904年(明治37年)、東京高商を卒業した梁瀬は大阪商船(現商船三井)に入社し、その後三井物産に転じた。

実業家として

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1915年(大正4年)、梁瀬は三井物産機械部から独立して、同社から輸入自動車及び輸入鉱油類の一手販売権を譲渡されるとともに、270坪の工場及び店舗の貸与を受けて東京・日比谷に個人商店「梁瀬商会」を設立、アメリカの自動車であるビュイックキャデラック、同じくアメリカ、バルボリン社製鉱油類の輸入販売を始めた[6] [7] [8] 。同年に設立された日本自動車協会において梁瀬は理事となった[9] 。2年後には事務所を東京・呉服橋に移転、1920年(大正9年)には事業別に独立した会社組織、梁瀬自動車株式会社(自動車)と梁瀬商事株式会社(鉱油)を設立して両社の社長に就任した[10]

しかしながら経済大不況から、仕入れた車はほとんど売れず、ノイローゼに掛かった梁瀬は妻を連れて欧州に逃げるように旅行に出かけた。身も心も、会社も、瀬戸際に追い詰められていた1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。大災害の時は、「物より人の移動が優先する」との直感で、独立の恩人である三井物産の常務であった山本条太郎や周囲の猛反対にもかかわらず、大量の在庫を抱える中で震災直後にGMに乗用車2000台を新たに注文、横浜へ出荷し、それが当たって破産寸前から立ち直った[1] [11] 。逆にトラックを輸入した同業者は在庫の処分に苦労したとされる[11] 1924年(大正13年)以降は、日本各地の有力者との共同出資により乗合自動車事業を展開した[9] 1927年(昭和2年)に日本フィアット、1939年(昭和14年)に日本瓦斯自動車を設立する。1941年、梁瀬自動車を梁瀬自動車工業に改組し、社長に就任した。1945年(昭和20年)、梁瀬自動車工業はあらためて梁瀬自動車に改組された。同年、梁瀬自動車の会長に選任された[1] [9] 1952年(昭和27年)に輸入自動車協会(現日本自動車輸入組合)を立ち上げ同会長を務めている[9]

エピソード

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生まれつき病弱で吃音だった息子次郎に対し、「できそこない」ときめつけ、ことごとくつらくあたった。「慶應風情のバカ学校に通って云々〜」などとワンマンであった長太郎には息子・次郎は頼りなくみえたらしく、また次郎の方も幼き頃からそんな父に反発と同時に競争心も宿らせていた。当初は大学の同窓の後輩から社長に充てる腹積りでいたが、役員陣らの大反対で、結局は次郎に禅譲することになった。次郎によると、「ふりかえってみると、私の半生の大半は、父長太郎に対する反発と抵抗の歴史であったと思う。」という[12]

家族 親族

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妻の梁瀬ちゃうは黒沢家から嫁いできた。群馬県 多野郡 多胡村大半地(現・高崎市)出身である。二男の梁瀬次郎によると、「母の祖父は群馬県で一番のたばこの栽培業者で、いわゆる吉井のお大尽だった」という[13] 。その次郎は実業家として活動し、長太郎の跡を継ぎヤナセの社長を務めた。また、長太郎の娘のうち、次郎の長姉は漆山一に嫁いだ[14] [15] 。漆山は梁瀬自動車で専務を務めるなど[15] 、実業家として活躍した。また、長太郎の娘のうち、次郎の別の姉は近山金次に嫁いだ[15] 。近山は歴史学者であり、慶應義塾大学 文学部教授などを歴任した[15] 。長太郎の娘のうち、次郎のすぐ下の妹は「諏訪の六大製糸家」の一つである尾澤家の尾澤金藏に嫁いだ[15] [16] [17] 。なお、長太郎の長男と二女は早逝している[18] 。また、孫の夫である稲山孝英も実業家であり、次郎の跡を継ぎヤナセの社長を務めた。なお、下記以外にも係累縁者が多数存在するが、ここでは長太郎の親族に該当する著名人のみを列挙した。

系譜

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梁瀬家

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梁瀬孫平
 
梁瀬長太郎
 
長太郎の長女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漆山一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長太郎の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近山金次
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梁瀬次郎
 
次郎の長女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿島昭一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次郎の二女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梁瀬泰孝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲山孝英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長太郎の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾澤金藏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 赤地に太字が本人、緑地は本人以外の梁瀬家の当主である。
  • 係累縁者が多いため、梁瀬長太郎の親族に該当する著名人のみ氏名を記載した。
  • 梁瀬泰孝は稲山孝英の息子であり、梁瀬次郎の養子となった。

他家との関係

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        中曽根康弘 
         ┃  
         ┣━━━┳美智子
         ┃  ┃
     小林儀一郎━━━蔦子  ┃ 
           ┗美恵子 
         ┏渥美昭夫 ┃
         ┃   ┃
     渥美育郎━━━╋渥美謙二 ┃
         ┃   ┃
         ┗渥美健夫 ┃
          ┃ ┏渥美直紀
          ┣━━┫
          ┃ ┗渥美雅也
         ┏伊都子
         ┃
     鹿島守之助 ┃石川六郎
       ┃  ┃ ┃
       ┃  ┣よし子
  鹿島精一   ┣━━━┫
   ┃   ┃  ┃平泉渉
   ┃   ┃  ┃ ┃
   ┣━━━━━卯女  ┣三枝子
   ┃     ┃
   ┃     ┃
鹿島岩蔵━━いと     ┗鹿島昭一
          ┃
          ┃
         ┏公子
  梁瀬長太郎━梁瀬次郎━━━━┫
         ┗弘子
          ┃
          ┃
     稲山嘉寛━━━━稲山孝英

略歴

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d "梁瀬長太郎 やなせ ちょうたろう". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社 (2015年9月). 2015年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月30日閲覧。
  2. ^ 歴代社長
  3. ^ 私の履歴書 昭和の経営者群像8』 232、234頁
  4. ^ a b ヤナセ、出版文化社「第1章 創立・黎明期 1915-1929」『ヤナセ100年の轍』(PDF)出版文化社、2015年9月、14頁。 NCID BB19680706 https://www.yanase.co.jp/company/pdf/s05.pdf 2024年1月10日閲覧 
    "社史『ヤナセ100年の轍』平成27年9月発行". www.yanase.co.jp. 株式会社ヤナセ. 2024年1月10日閲覧。
  5. ^ 私の履歴書 昭和の経営者群像8』 236頁
  6. ^ 企業概要 株式会社ヤナセウェブサイト 「1920年1月27日設立、1915年5月25日創業」としている、平成23年5月19日閲覧
  7. ^ "ヤナセ発祥の地の今昔(1915〜1916年)". ヤナセの歴史. ヤナセ. 2015年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月30日閲覧。
  8. ^ "ヤナセ、「クルマはつくらない、クルマのある人生をつくっている」をスローガンに次の100年へ". Car Watch. インプレス (2015年5月25日). 2015年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月30日閲覧。
  9. ^ a b c d 梁瀬次郎『轍 わだち : 日本自動車界のあゆみとヤナセ 3』ティー・シー・ジェー、1984年1月http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6820&query=%E6%A2%81%E7%80%AC%E9%95%B7%E5%A4%AA%E9%83%8E 2015年12月30日閲覧 
  10. ^ http://www.yanase.co.jp/company/history.asp
  11. ^ a b "ヤナセと関東大震災(1923年)". ヤナセ. 2015年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月30日閲覧。
  12. ^ 私の履歴書 昭和の経営者群像8』 233頁
  13. ^ 私の履歴書 昭和の経営者群像8』 234頁
  14. ^ 梁瀬次郎『轍』1巻、3版、ティー・シー・ジェー、1986年、337頁。
  15. ^ a b c d e f g h 梁瀬次郎『轍』1巻、3版、ティー・シー・ジェー、1986年、338頁。
  16. ^ a b 梁瀬次郎『轍』1巻、3版、ティー・シー・ジェー、1986年、139頁。
  17. ^ a b 梁瀬次郎『轍』1巻、3版、ティー・シー・ジェー、1986年、275頁。
  18. ^ 梁瀬次郎『轍』1巻、3版、ティー・シー・ジェー、1986年、278頁。

参考文献

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  • 私の履歴書 昭和の経営者群像8』 日本経済新聞社 1992年
  • 『現代日本人名録 物故者編1901-2000』
ビジネス
先代
(新設)
梁瀬自動車(旧梁瀬自動車工業、のちのヤナセ)会長
初代:1945年 - 1956年
次代
梁瀬次郎
先代
(新設)
梁瀬自動車(のちの梁瀬自動車工業、ヤナセ)社長
初代:1920年 - 1945年
次代
梁瀬次郎

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