コンテンツにスキップ
Wikipedia

松平勝長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 勝長
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文2年8月14日(1737年 9月8日)
死没 文化8年9月13日(1811年 10月29日)
改名 勇之助、勝長、鳳山
別名 徳川勝長
戒名 亮諦院住誉心覚全超
墓所 相応寺
官位 従四位下 左近衛権少将掃部頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川宗睦斉朝
尾張藩
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川宗勝、母:嘉代(英巌院)
兄弟 房姫、徳川宗睦義敏、豊姫、義当勝長勝綱竹腰勝起、邦姫、井上正国内藤頼多勝鷹、品姫、恭姫、陽姫、内藤政脩 ら15男11女
留代(木造重愛の娘)、松平忠左衛門の娘
睦英、勇丸
テンプレートを表示

松平 勝長(まつだいら かつなが)は、江戸時代中期から後期にかけての武士。徳川勝長とも名乗った。鳳山と号した[1]

略歴

[編集 ]

元文2年(1737年)8月14日、尾張藩 藩主徳川宗勝の六男として江戸で誕生した[注 1] [2] [1] 。母は嘉代(英巌院)[2] [1] 幼名は勇之助[2]

寛延元年(1748年)7月1日、父・宗勝の一字をとり、勝長と名乗る[2] 。同年9月15日、将軍家重に初めて御目見する[2] 。同年12月21日、従四位下 左近衛権少将に任じられ、掃部頭を称した[2]

岩井正斎に絵を学んだ[1]

安永6年(1777年)11月7日、長男・悦之助が誕生した[2] 。母は留代(木造重愛の娘)[2] 寛政4年(1793年)2月1日、9代藩主・徳川宗睦から一字をとり、睦英と名乗る[2] 。同年6月9日、尾張で死去した[2]

寛政5年(1793年)9月20日、二男・勇丸が誕生した[3] 。母は松平忠左衛門の娘[4] 。同6年(1794年)11月9日、宗睦の養子となる[4] 。同7年(1795年)9月20日、尾張で死去した[5]

文化8年(1811年)9月13日、尾張で死去した[2] [1] 。77歳[1] 相応寺に葬られた[1] 法号は亮諦院住誉心覚全超[2]

脚注

[編集 ]

注釈

[編集 ]
  1. ^ 『尾張家御系譜』では享保20年(1735年)とも記されているが、「実ハ」としてこちらの生年が正しいとしている[2]

出典

[編集 ]

参考文献

[編集 ]
  • 「御系譜(尾張家)」『徳川諸家系譜』 第二、続群書類従完成会、1974年8月30日。NDLJP:12211157 (要無料登録要登録)
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編』《上巻》国書刊行会、1981年10月20日。NDLJP:12253459 (要無料登録要登録)
  • 『美術人名事典』(思文閣)

外部リンク

[編集 ]
スタブアイコン サブスタブ

この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家 芸術家 に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /