本間資貞
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 永仁5年(1297年)[注釈 1] |
死没 | 元弘3年/正慶2年2月2日(1333年 2月16日) |
別名 | 九郎[1] |
氏族 | 本間氏 |
子 | 本間資忠 [2] |
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経歴・人物
[編集 ]本間氏は相模国 小野氏の一族[3] 。北条高時に仕えた御家人の人見光行に従い、楠木正成の守る河内 赤坂城に攻めいり、光行と共に抜け駆けをし、討死した(上赤坂城の戦い)[1] [4] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
注釈
[編集 ]- ^ 『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」の記述、「相摸の国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出でしより軍の先陣を懸けて、屍を戦場に晒さん事を存じて相向かへり。」を元に逆算。