本間資忠
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時代 | 鎌倉時代末期 |
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生誕 | 正和5年(1316年) |
死没 | 元弘3年/正慶2年2月2日(1333年 2月16日) |
別名 | 源内兵衛[1] |
氏族 | 本間氏 |
父母 | 父:本間資貞 |
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経歴・人物
[編集 ]本間氏は相模国 小野氏の一族[2] 。本間資貞の嫡子として相模国に生まれる。北条方として父の資貞や人見光行と共に楠木正成の守る河内 赤坂城を攻める(上赤坂城の戦い)[1] 。元弘3年/正慶2年(1333年)2月2日、戦死した父の首級を得て埋葬したあと、天王寺の鳥居の右柱に「待てしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六の街の 道しるべせん(暫く待ってください。子を思う闇に迷っていることでしょう。私が六道の道標となりますから。)」と辞世の句を書きとめ、同日、自らも城に攻めいり孤軍奮闘の末討死にした[1] [3] [4] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
関連項目
[編集 ]ウィキメディア・コモンズには、本間資忠 に関連するカテゴリがあります。