拓跋楨
拓跋 楨(たくばつ てい、447年 - 496年)は、北魏の皇族。南安恵王。
経歴
[編集 ]拓跋晃と劉椒房のあいだの子[1] として生まれた。468年(皇興2年)、南安王に封じられ、征南大将軍・中都大官の位を加えられた。まもなく内都大官に転じた。孝文帝が即位すると、涼州鎮都大将に任じられた。綏撫の才能を認められて、都督西戎諸軍事・征西大将軍・領護西域校尉・儀同三司・涼州刺史の位が加えられた。召還されてまた内都大官となり、使持節・侍中・征西大将軍・開府・長安鎮都大将・雍州刺史として出された[2] 。
孝文帝は皇信堂で拓跋楨に引見すると、三つの教訓を与えて戒めた。しかし拓跋楨は守ることができず、後に財産を集めて気ままに振る舞うようになった。文明太后は汝陰王拓跋天賜とともに拓跋楨を処罰するよう命じ、孝文帝は拓跋楨の南安王位を剥奪し、庶人に落として私邸に禁錮させた[2] 。
後に拓跋楨が孝文帝の南征に従って洛陽に到着すると、筆頭で孝文帝の洛陽遷都計画に賛同したため、孝文帝に喜ばれた。拓跋楨の母の劉太妃が死去すると、孝文帝は自ら拓跋楨の邸に行幸して慰めた。遷都のことが決定されると、拓跋楨は再び南安王に封じられ、食邑1000戸を受けた。鎮北大将軍・相州刺史として出向することになり、孝文帝が華林都亭で餞別した[2] 。
496年(太和20年)5月、鄴に到着した。鄴城に石虎の廟があって祀られていた。拓跋楨は「三日雨ふらずば、鞭罰を加うるべし」と言って石虎の神像に降雨を祈願したが、効き目がなかったため、神像を100回鞭打った。この月のうちに拓跋楨は背中にできものができて死去した[3] 。諡は恵といった。かつて拓跋楨は恒州刺史の穆泰の反乱計画を知りながら報告しなかったことがあり、このため生前にさかのぼってまた南安王の爵位を剥奪された[2] 。
子女
[編集 ]男子
[編集 ]女子
[編集 ]- 北郷郡長公主(爾朱栄の妻)
子孫
[編集 ]子孫から元曄(元怡の子)・元朗(元彬の子の元融の子)の2人の皇帝が出ている。いずれも諡号を贈られなかった廃帝である。