元悦
元悦 | |
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北魏 | |
皇帝 | |
王朝 | 北魏 |
在位期間 | 530年6月 - 532年4月 |
都城 | 洛陽 |
姓・諱 | 元悦 |
生年 | 太和18年(494年) |
没年 | 太昌元年(532年)12月 |
父 | 孝文帝 |
年号 | 更興 : 530年 - 532年 |
元 悦(げん えつ)は、北魏の皇族。汝南文宣王。南朝梁の支援を受けて一時は皇帝を称したが、まもなくその地位を失って殺害された。正史では正統の皇帝の代数には数えられていない。
経歴
[編集 ]孝文帝と羅夫人の子として生まれた。景明4年(503年)6月、汝南王に封じられた。熙平2年(517年)4月、中書監・儀同三司となった。7月、殺人に連座して免官され、王のまま邸に帰された。
正光元年(520年)、兄の清河王元懌が元叉のために殺害されたが、元悦には報復の意志がなく、かえって元叉に媚びへつらった。元叉の引き立てで、元悦は侍中・太尉となった。正光4年(523年)12月、太保に上った。孝昌2年(526年)1月、太保のまま太尉を兼ねた。
建義元年(528年)4月、爾朱栄が洛陽に入り、河陰の変が起こって北魏の皇族の多くが殺害されると、元悦は逃亡して南朝梁に亡命した。
梁の中大通2年(530年)6月、梁の武帝は元悦を北魏の皇帝に擁立し、更興と建元した。南朝梁の将軍の王辯に送られて北に向かった。中大通4年(532年)、梁の司州 牧の薛法護に送られて、洛陽に入った。この時、北魏には爾朱世隆に擁せられた広陵王元恭(前廃帝/節閔帝)、高歓が擁立した安定王元朗(後廃帝)が存在していたため、北魏には3人の皇帝が並び立ったことになる。
しかし、同年(北魏の中興2年)4月、高歓が爾朱氏に勝利したことによって南朝梁の軍は洛陽から撤退し、元悦は洛陽に取り残され、自動的にその帝位も消失した。北魏の最高実力者となった高歓は洛陽に入り、元朗に替えて元悦を皇帝とすることをも検討したが、元悦の態度が凶暴だったため、支えることができないと判断してそれを取りやめ、元脩(孝武帝)を擁立した。同年(太昌元年)11月に元悦は侍中・大司馬・開府となったものの、12月には殺害された。
人物
[編集 ]- 元悦は仏教の経典を読むのを好み、史書を読みこなした。
- 元悦の性格は道徳を外れており、行動は予測がつかなかった。
- 道士の崔延夏と交友し、仙薬の類を調合して服用した。薬の原料となる芝を採りに出かけ、城外の零細民のところに宿泊した。酒・肉・粟・米を断ち、麦飯だけを食すようになった。
- 元悦は房中では男色を好んだ。
- 元悦はちょっとしたことで妃や妾に怒りちらし、鞭打ちを加えた。元悦が宮中を出ると、妃の閭氏は別居した。霊太后がわけを問いただすと、妃は元悦の暴行のために病床に伏し、傷も癒えていないことが分かった。太后は妃に対する鞭打ちに禁令を下し、諸親王の正妃で百日以上の疾患にある者は、全て報告させることとした。太后はもしさらに鞭打ちを加えれば、爵位を削るむね宣告した[1] 。
- 清河王元懌の子の元亶が父の形見を求めると、元悦は元亶を召し出して鞭打った。
- 元悦はまぐさを切る押し切り(剉碓)の大きなものを州門に置き、盗人がいるとその手を切らせるようにした。
妻子
[編集 ]妻
[編集 ]- 閭氏(東海公の娘)
子
[編集 ]閭氏とのあいだに一人の男子の元潁あり。南朝梁に早世した。
脚注
[編集 ]- ^ 『魏書』巻22 汝南王伝「妃病杖伏床蓐,瘡尚未愈〜」