戸倉町
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曖昧さ回避
「戸倉町」のその他の用法については「戸倉町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
とぐらまち 戸倉町 | |
---|---|
戸倉上山田温泉・笹屋ホテル | |
廃止日 | 2003年9月1日 |
廃止理由 |
新設合併 更埴市、上山田町、戸倉町→千曲市 |
現在の自治体 | 千曲市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本の旗 日本 |
地方 | 中部地方(甲信越地方) |
都道府県 | 長野県 |
郡 | 埴科郡 |
市町村コード | 20522-2 |
面積 | 25.23 km2 |
総人口 |
18,343人 (推計人口、2003年8月1日) |
隣接自治体 | 更埴市、更級郡 上山田町、埴科郡 坂城町、東筑摩郡 麻績村、坂井村 |
町の木 | ヤマザクラ、ヤナギ、エンジュ |
町の花 | ツツジ、マツヨイグサ、キク |
戸倉町役場 | |
所在地 |
〒389-0892 長野県埴科郡戸倉町戸倉2388番地 |
外部リンク | 戸倉町(Internet Archive) |
座標 | 北緯36度29分19秒 東経138度08分52秒 / 北緯36.48867度 東経138.14767度 / 36.48867; 138.14767 座標: 北緯36度29分19秒 東経138度08分52秒 / 北緯36.48867度 東経138.14767度 / 36.48867; 138.14767 |
戸倉町の県内位置図 | |
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戸倉町(とぐらまち)は、かつて長野県 埴科郡にあった町である。
2003年(平成15年)9月1日に、更埴市、更級郡 上山田町と合併し、千曲市となったため廃止した。
江戸時代は北国街道の宿場町、大正時代から戸倉上山田温泉などで温泉町として発達し、近年は旧更埴市や、長野市・上田市への通勤の利便性から人口が増加傾向にあった。
本項では町制前の名称である戸倉村(とぐらむら)についても述べる。
地理
[編集 ]- 河川:千曲川
隣接していた自治体
[編集 ]歴史
[編集 ]- 1881年(明治14年)1月28日 - 近世以来の下戸倉村が改称して戸倉村となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、戸倉村が単独で自治体を形成。
- 1940年(昭和15年)4月17日 - 戸倉村が町制施行して戸倉町となる。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 更級郡 更級村と合併し、改めて戸倉町が発足。
- 1955年(昭和30年)7月1日 - 五加村の一部(上徳間村・内川・千本柳・小船山)と合併し、改めて戸倉町が発足。
- 五加村の残部(中)は埴生町に編入。
- 1992年(平成4年)10月2日 - 町立さらしなの里歴史資料館が中村勝己を初代館長として開設。
- 2003年(平成15年)9月1日 - 更埴市・更級郡 上山田町と合併して千曲市 が発足。同日戸倉町廃止。
地名の由来
[編集 ]同地にある鏡台山の山陰に倉科村があり、戸倉はその山陽にあたるので「外倉科」と呼んだ。その後、「科」を取って「外倉」とし、後日「戸倉」と改めた[1] 。
他にも鎌倉時代か室町時代かに「土倉」と呼ばれる金融を業とする者の倉があったからとする説もある。
経済
[編集 ]産業
[編集 ]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、戸倉村の篤農家は「小出熊次郎、岡本藤次郎、瀧澤勝、瀧澤民治、乃木博、永井寅重、柳澤専次郎、宮本十良右衛門、小出九右衛門、宮本兼助、瀧澤延太郎、坂井量之助、高野覚治、中村留三郎、高野育太郎、山崎菊次郎、柳澤立志郎、柳澤喜市、柳澤義美、中村周平、瀧澤菅四郎」などがいた[2] 。
- 商工業
- 店
教育
[編集 ]- 戸倉上山田組合立戸倉上山田中学校
- 戸倉町立五加小学校
- 戸倉町立更級小学校
- 戸倉町立戸倉小学校
交通
[編集 ]鉄道路線
[編集 ]道路
[編集 ]- 一般国道
- 主要地方道
- 一般県道
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ), ブリタニカ国際大百科事典. "戸倉とは". コトバンク. 2020年12月26日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』379-380頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年9月2日閲覧。
- ^ a b c 『商工興信録 本州中部地方』66-67頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年9月2日閲覧。
参考文献
[編集 ]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 商工興信合資会社編『商工興信録 本州中部地方』商工興信合資会社、1919年。
- 年表戸倉町の今昔 戸倉町教育委員会 昭和49年3月30日。