岡谷康治
おかや やすはる 岡谷 康治 | |
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生誕 |
(1915年09月09日) 1915年 9月9日 日本の旗 日本 愛知県 名古屋市 |
死没 | (1996年03月21日) 1996年 3月21日(80歳没) |
出身校 |
名古屋高等商業学校(現名古屋大学) 東京商科大学(現一橋大学) |
職業 | 実業家 |
親 | 岡谷惣助 (10代目)(父) |
親戚 |
岡谷惣助 (9代目)(祖父) 岡谷篤一(甥) 朝海和夫(娘婿) 嵯峨根遼吉(義兄) |
受賞 |
従四位 勲二等 瑞宝章 藍綬褒章 |
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岡谷 康治(おかや やすはる、1915年 9月9日 - 1996年 3月21日 [1] )は、日本の実業家。岡谷鋼機創業家十二代目当主で、同社代表取締役社長や、中部経済同友会 代表幹事、名古屋商工会議所副会頭等を務めた。
来歴・人物
[編集 ]愛知県 名古屋市出身[1] 。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て[2] 、1937年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業[3] 。1941年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後[4] 、鉄鋼統制会に入る[5] 。
1945年鉄鋼統制会を退職し[6] 、岡谷鋼機 取締役に就任。1948年常務。1958年社長[5] 。1982年からはキタン会会長も務め[3] 、1990年から岡谷鋼機会長となった[7] 。
中部経済同友会代表幹事 [8] 、名古屋商工会議所副会頭、愛知県日韓協会副会長などを歴任し[9] 、大隈鐵工所取締役、中部日本放送取締役、旭精機工業 監査役、愛知時計電機監査役、名古屋鉄道監査役、東邦瓦斯監査役を兼務した[10] 。
また、1951年の日本青年会議所創立メンバーであり、同年に開催された第6回国際青年会議所(JCI)世界会議モントリオール大会に、6人の日本代表団の1人として参加し、正式加盟のため尽力するなどした[11] 。
1977年藍綬褒章、1986年勲二等 瑞宝章を受章[1] 。1996年従四位 [12] 。
親族
[編集 ]岡谷家の十二代目当主であり[13] 、父は岡谷鋼機設立者の十代目岡谷惣助。長女はEU政府代表部特命全権大使などを務めた朝海和夫に嫁いだ[5] 。姉は物理学者の嵯峨根遼吉に嫁ぎ[14] [15] 、姪は日産自動車に勤務していた自動車技術者でR33型・R34型スカイラインの開発責任者(主管)を務めた渡邉衡三に嫁いだ[15] 。
脚注
[編集 ]- ^ a b c 『現代物故者事典 1994〜1996』(日外アソシエーツ、1997年)p.133
- ^ 「過去の被顕彰者リスト」鯱光会活動案内
- ^ a b キタン会100年の歩みキタン会
- ^ 官報 1941年08月05日
- ^ a b c 人事興信録 8版 人事興信録 13版
- ^ 経済人 17(4)(187) 雑誌 (関西経済連合会, 1963-04) 全 3 件の該当箇所
- ^ 「岡谷鋼機の歴史」
- ^ 「中部経済同友会の歴史」
- ^ [1]在日本大韓民国民団
- ^ 上田義朗「日本企業における役員兼任の類型分析 : 役員兼任「独自の意義」に関する予備的考察(松田和久博士記念号)」『国民経済雑誌』第158巻第4号、神戸大学経済経営学会、1988年10月、105-120頁、doi:10.24546/00173812、hdl:20.500.14094/00173812 、ISSN 03873129、CRID 1390009224927386112。
- ^ 日本JC の誕生日本青年会議所
- ^ 官報平成8年本紙第1884号 11頁
- ^ 新日本経済 32(4) 雑誌 (新日本経済社、1968-04)
- ^ 『門閥』、480-481頁、484頁。
- ^ a b 『豪閥』、246-247頁。
参考文献
[編集 ]- 佐藤朝泰『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年 4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房、2001年 7月5日第1刷発行、ISBN 4-651-70079-9