尹光雄
尹光雄 윤광웅 | |
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生年月日 | (1942年10月13日) 1942年 10月13日(81歳) |
出生地 | 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 慶尚南道 釜山府 |
出身校 |
海軍士官学校 国防大学校 |
所属政党 | 無所属 |
在任期間 | 2004年 7月29日 - 2006年 11月24日 |
大統領 | 盧武鉉 |
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尹光雄 윤광웅 | |
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生誕 |
1933年 6月26日 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 慶尚南道 釜山府 |
所属組織 | 大韓民国海軍 |
軍歴 | 1966 - 1999 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 第39代国防部長官 |
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尹光雄 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 윤광웅 |
漢字: | 尹光雄 |
発音: | ユン・グァンウン |
英語表記: | Yoon Kwang-ung |
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尹 光雄(ユン・グァンウン、1932年 11月20日 - )は、大韓民国の政治家、軍人。第39代国防部長官、大韓民国国家非常企画委員会委員長、海軍作戦司令官などを歴任。階級は予備役中将。
経歴
[編集 ]1932年 11月20日に慶尚南道 釜山府で生まれた。1961年に釜山商業高校を卒業した。同じ高校を卒業した盧武鉉の先輩である[1] 。1966年に海軍士官学校を卒業(海士20期)し[2] 、少尉に任官された。1973年に国防大学校を卒業した。1993年に第2艦隊司令官に就任し、1995年には国防部獲得開発局長に[2] 、1997年には海軍作戦司令官に[2] 、1998年に海軍参謀次長[1] に就任するなど海軍の要職を歴任した。2003年に大韓民国国家非常企画委員会委員長に任命された。翌2004年には盧武鉉 大統領の国防補佐官に任命された[3] 。同年7月に朝鮮人民軍海軍の警備艇が北方限界線を侵犯した際の交信内容が流出したことに対して憂慮の意思を表明した[4] 。
同年7月28日に鉠永吉が国防部長官を辞任し、後任に任命された[5] 。2005年に発生した漣川軍部隊銃乱射事件では国会で解任動議が出されたが、盧武鉉大統領がかばい留任した[1] 。海軍幹部時代は「米国通」として知られたが、就任後は在韓米軍の戦時作戦統制権返還を推進し、歴代国防部長官や予備役大将との懇談会で論議中止を要求され[6] 、政権の安保政策も強く非難された[7] 。その後も米韓連合司令部は軍事主権の侵害に近いと発言し、大きな批判を呼んだ[1] 。2006年 8月27日にアメリカのドナルド・ラムズフェルド 国防長官から2009年に戦時作戦統制権を返還するのが望ましいという書簡が尹光雄長官に送られ[8] 、2012年に返還することで合意した[9] 。
2006年 10月9日に北朝鮮初の核実験が強行されたことを受け、辞意を表明した[10] 。
2018年に機務司令部が国防部長官在職中の尹の通話を盗聴していたことが分かった[11] 。
脚注
[編集 ]- ^ a b c d [社説]尹光雄長官を信じて従う軍人がどれほどいるか 東亜日報 2006年8月19日
- ^ a b c 金昇圭 法務部長官・ 尹光雄 国防長官が就任 KBSワールドラジオ 2004年7月28日
- ^ 盧大統領、安保・国防など3補佐官を交替 東亜日報 2004年1月30日
- ^ 「NLL報告漏れ」事件、大統領府と軍の葛藤様相に 東亜日報 2004年7月20日
- ^ 新長官と前長官 東亜日報 2004年7月28日
- ^ 「作戦権返還は時期尚早」歴代国防長官らが論議中止を要求 東亜日報 2006年8月3日
- ^ 歴代国防部長官の懇談会 東亜日報 2006年8月3日
- ^ 米国防長官「戦時作戦統制権、09年移譲が望ましい」 東亜日報 2006年8月28日
- ^ 韓米、作戦権「2012年3月までに返還」で合意 東亜日報 2006年10月23日
- ^ 彼はなぜ去り...彼らはなぜ来るのか 東亜日報 2006年10月28日
- ^ 機務司、盧政権下で大統領と国防長官の通話を盗聴 東亜日報 2018年7月31日
公職 | ||
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先代 曹永吉 |
大韓民国の旗 国防部長官 2004年 7月29日 - 2006年 11月24日 |
次代 金章洙 |