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小川亨

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曖昧さ回避 小川徹」とは別人です。
小川 亨
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県 宮崎市
生年月日 (1945年08月01日) 1945年 8月1日(79歳)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1967年 ドラフト3位
初出場 1968年 4月7日
最終出場 1984年 9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
この表について
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小川 亨(おがわ とおる、1945年 8月1日 - )は、宮崎県 宮崎市出身の元プロ野球選手(外野手内野手)・コーチ解説者

愛称の「モーやん」は、同じく「モーやん」の愛称を持つ堀込基明に似ていたことが由来[1] [2]

経歴

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プロ入りまで

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宮崎商業では3年次の1963年、4番・中堅手として夏の甲子園県予選決勝に進出。エース清俊彦を擁する高鍋高を破り夏の甲子園への出場を決めるが、大会では2回戦に進出するものの、甲府商大石勝彦堀内恒夫両投手の継投に敗れた[3] 。この年の大会は出場校が多く、西宮球場が併用されたため、宮崎商は甲子園ではプレーできなかった。高校同期に高橋博士 捕手、1年下に山本真一 三塁手、2年下には控え投手の水谷実雄がいた。その後、高校日本代表として高橋や池永正明和田徹らと共にハワイに遠征を経験。

高校卒業後は1964年立教大学へ進学し、東京六大学リーグでは3年次の1966年春季で、槌田誠谷木恭平秋山重雄阿天坊俊明らと共に7年ぶりの優勝を飾る。同年秋季では秋元国武と3厘差でリーグ2位の打率.372を記録し、3本塁打も放ってベストナイン(外野手)に選出された。リーグ通算61試合出場、196打数57安打、打率.291、7本塁打、33打点。

現役時代

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1967年のドラフト3位で近鉄バファローズに指名され、大学卒業後の1968年に入団。を深く、体をくの字に曲げ、バットを極端に短く持って投手に傾ける独特の構えで、勝負強い打撃を発揮。1年目の1968年から外野手、一塁手として一軍に定着、56試合に先発し打率.256を記録。

1969年は11本塁打と長打も増え、同年から1973年まで5年連続2桁本塁打を記録。

1970年には初の規定打席(14位、打率.270)に到達。

1971年は自己最多の20本塁打、打率もリーグ5位の.315と大台を突破し、中心打者としての地位を固めた。また、1年目から1974年まで7年連続で2桁盗塁も記録し、1970年・1972年とリーグ最多三塁打を記録。

大学の先輩である西本幸雄監督就任後は1975年は打率こそ3割を切ったものの、最高出塁率のタイトルを獲得したほか、7月10日南海戦(日生)から9月6日太平洋戦(藤井寺)まで歴代3位[4] の180打席連続無三振記録を樹立した[5]

1979年はリーグ初優勝に貢献し、同年の広島との日本シリーズでは全7戦に一塁手として先発出場、24打数6安打の成績を残す。

1980年には自己最高となる打率.323を記録してリーグ6位に付け、同年の広島との日本シリーズでは全7戦すべてに安打を放ち、23打数9安打5打点と活躍、敢闘選手賞を獲得するが日本一はならなかった。

近鉄一筋17年のプロ生活で、通算1908試合出場は球団最多記録[6] 1984年 9月30日日本ハム戦(藤井寺)を最後に現役を引退。

現役時代には、その朴訥とした風貌から松下電器の暖房器具のCMに農夫役で出演したこともある(実際、家庭菜園を趣味としている)。

引退後

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引退後は近鉄の二軍打撃コーチ(1985年)を経て、朝日放送解説者(1986年 - 1988年)を務め、日本プロ野球史に残る『10.19』のロッテ-近鉄戦ダブルヘッダーの第一試合ではラジオ中継の解説を、第ニ試合ではテレビ中継の解説をしていた。平日朝の情報ワイド番組『おはよう朝日です』では「小川亨のスポーツ&スポーツ」を担当した。

1989年から1992年まで近鉄の一軍打撃コーチを務め、1989年のリーグ優勝に貢献。

1993年には大学の先輩である土井正三監督率いるオリックス・ブルーウェーブの一軍打撃兼外野守備・走塁コーチに就任。

1994年オリックスの二軍打撃コーチを務めて退任。オリックス退団後は文化放送解説者(1995年 - 2007年)を務め[7] [8] プロ野球マスターズリーグでは大阪ロマンズでプレー。中学硬式野球チーム「大阪狭山リトルシニア野球協会」の監督も務めており、愛弟子には藤江均(横浜-楽天)がいる。

2003年以降は法務省から保護司を委嘱され、保護観察処分を受けた者への説諭等を行う活動を進めている[9] [10]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1968 近鉄 95 251 215 31 55 7 2 3 75 11 10 5 9 0 25 2 2 15 4 .256 .339 .349 .688
1969 118 381 311 51 77 13 1 11 125 34 15 7 9 2 54 1 5 29 6 .248 .364 .402 .766
1970 127 508 445 63 120 15 5 14 187 49 24 10 6 3 46 7 8 40 4 .270 .347 .420 .767
1971 127 502 428 66 135 12 2 20 211 40 14 12 6 2 61 3 5 34 4 .315 .403 .493 .896
1972 125 530 446 68 121 23 8 10 190 32 10 4 6 2 65 5 11 29 6 .271 .376 .426 .802
1973 123 488 432 61 125 18 4 19 208 63 16 6 4 3 38 1 11 31 10 .289 .360 .481 .841
1974 119 474 392 59 108 5 2 7 138 32 20 13 5 1 65 0 11 26 6 .276 .392 .352 .744
1975 128 541 453 67 131 13 2 5 163 45 7 8 10 0 68 3 10 18 4 .289 .394 .360 .753
1976 110 343 305 34 71 6 0 4 89 29 3 5 4 1 28 1 5 20 9 .233 .307 .292 .599
1977 99 322 288 34 90 12 2 3 115 22 8 4 5 0 25 0 4 16 2 .313 .375 .399 .775
1978 108 369 327 46 105 17 2 10 156 50 2 5 4 3 33 3 2 25 7 .321 .384 .477 .861
1979 118 430 376 47 104 20 0 12 160 44 2 2 3 3 43 2 5 25 9 .277 .356 .426 .782
1980 114 406 344 69 111 24 0 15 180 55 1 3 9 3 47 0 2 26 5 .323 .404 .523 .927
1981 116 411 359 50 106 20 2 9 157 35 5 1 4 3 41 2 3 12 2 .295 .369 .437 .807
1982 94 281 249 27 75 14 1 6 109 42 3 2 2 7 22 2 0 12 2 .301 .350 .438 .788
1983 104 270 234 25 63 6 1 8 95 27 1 0 1 0 35 4 0 15 8 .269 .364 .406 .770
1984 83 179 158 22 37 2 0 6 57 23 0 0 2 0 17 1 2 10 2 .234 .316 .361 .677
通算:17年 1908 6686 5762 820 1634 227 34 162 2415 633 141 87 89 33 713 37 86 383 90 .284 .369 .419 .788
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1976年5月26日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(西京極球場)、6番・指名打者として先発出場 (注記)史上186人目
  • 1000本安打:1977年8月22日、対クラウンライターライオンズ後期6回戦(日生球場)、3回裏に山下律夫から右前安打 (注記)史上104人目
  • 100本塁打:1978年8月19日、対クラウンライターライオンズ後期8回戦(平和台球場)、7回表に古賀正明から3ラン (注記)史上97人目
  • 1500試合出場:1980年9月29日、対西武ライオンズ後期11回戦(西武ライオンズ球場)、2番・一塁手として先発出場 (注記)史上65人目
  • 1500本安打:1982年8月6日、対西武ライオンズ後期4回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に高橋直樹から右前適時打 (注記)史上46人目
  • 150本塁打:1983年5月10日、対ロッテオリオンズ2回戦(川崎球場)、9回表に西井哲夫からソロ
その他の記録

背番号

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  • 7 (1968年 - 1984年)
  • 73 (1985年、1989年 - 1992年)
  • 71 (1993年 - 1994年)

脚注

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  1. ^ 『日本プロ野球 追憶の「球団史」 1936-2004』 ベースボール・マガジン社、2013年、46頁。
  2. ^ ベースボールマガジン』 ベースボール・マガジン社、2015年7月号、93頁。
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ 当時は吉田義男を破るプロ野球新記録。
  5. ^ 9月6日】1975年(昭50) 日本新記録直後に...小川亨 珍しく空振りでピリオド
  6. ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ
  7. ^ 小川が解説を担当するゲームは西武ライオンズ関西遠征が中心であったが、『ホームランナイター』を含む関東地区の試合も担当していた。
  8. ^ 文化放送での解説は2000年代後半以降退いているが、その後も文化放送の番組に電話出演した例がある。
  9. ^ 元近鉄・モーやん、保護司でも粘りの指導 讀賣新聞 2010年1月23日閲覧
  10. ^ 【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】小川亨さん 謙虚さから生まれた"半農半球"のモーやん (3/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)

関連項目

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外部リンク

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業績
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1970年代
1980年代
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2020年代
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1970年代
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1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
指名選手

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