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大森政輔

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おおもり まさすけ

大森 政輔
内閣法制局長官就任に際して
公表された肖像写真
生誕 (1937年05月11日) 1937年 5月11日(87歳)
日本の旗 兵庫県
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学法学部卒業
職業 八重洲法律事務所所員
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大森 政輔(おおもり まさすけ、1937年〈昭和12年〉5月11日 [1] - )は、日本裁判官弁護士民法学者(身分法戸籍法)。勲等瑞宝大綬章。八重洲法律事務所所員、第一東京弁護士会所属。過去に内閣法制局 総務主幹、内閣法制局第二部部長、内閣法制局第一部部長、内閣法制次長内閣法制局長官国家公安委員会委員などを歴任した。

兵庫県 神戸市出身[1] 裁判官である[2] 岡山地方裁判所大阪地方裁判所東京地方裁判所判事を務めた。のちに法務省に出向し検事となり[3] 民事局にて第二課の課長参事官を務めた[4] 。さらに内閣法制局に再出向し[3] 総務主幹を経て[4] 、第二部や第一部の部長を務めるなど[4] 、要職を歴任した。1992年には内閣法制次長に就任した[4] 1996年には大出峻郎の後任として内閣法制局長官に就任し[4] 第1次橋本内閣から小渕第1次改造内閣にかけて同職を務めた[5] [6] 。退職後は弁護士登録し[7] 第一東京弁護士会に所属した[7] 。また、ソニー第一生命保険監査役なども務めた。

来歴

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生い立ち

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1937年 5月に生まれ[2] 兵庫県にて育った[2] 灘高等学校を経て[3] 1960年3月京都大学法学部卒業[3] [4] 。在学中に司法試験に合格している[3] [4] 。に京都大学を卒業し[4] 、同年4月より司法修習生となった[4]

裁判官・法務官僚・法制官僚として

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1996年 1月11日総理大臣官邸にて第1次橋本内閣の閣僚らと

1962年 4月判事補に任命された[4] 京都地方裁判所秋田地方裁判所大曲支部秋田地方裁判所東京家庭裁判所岡山地方裁判所などで判事補を務めた。1972年 4月判事に任命された[4] 。岡山地方裁判所、大阪地方裁判所東京地方裁判所などで判事を務めた。裁判官としては、民事事件刑事事件家事事件少年事件など幅広く担当した[3] 。その後、法務省に出向して検事となり[3] 1978年 4月民事局の第二課にて課長に就任した[4] 1982年 4月には民事局の参事官に就任した[4] 。さらに、裁判所に戻ることなく、そのまま内閣法制局に再出向することになり[3] 1983年 11月に内閣法制局の総務主幹に就任した[4] 1985年 11月には第二部の部長に就任し[4] 1989年 8月には第一部の部長に就任している[4] 1992年 12月内閣法制次長に就任した[4] 1996年 1月大出峻郎の退任に伴い、第1次橋本内閣にて内閣法制局長官に就任した[4] [5] 。以来、小渕第1次改造内閣に至るまで内閣法制局長官を務めた[6]

退官後

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1999年弁護士登録し[7] 第一東京弁護士会に所属した[7] 。さらに、ソニー第一生命保険にて監査役に就任した。なお、2000年から2002年にかけて、東京家庭裁判所の家事調停委員を務めていた[7] 。また、度重なる警察不祥事を受けて発足した警察刷新会議にて委員を務め[7] [8] 2003年には国家公安委員会の委員に任命された[7] 。そのほか、2000年から2007年にかけて、早稲田大学法学部にて客員教授を兼任した[7]

主張・意見

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夫婦別姓制度
選択的夫婦別姓制度導入に賛意を示す[9]
2003年7月18日衆議院 法務委員会の審議に早稲田大学法学部客員教授として参考人招致され「自分は同氏を選ぶが、別氏を選びたい者の気持ちはそれとして尊重するという、自分と異なる意見に対する寛容の精神を基本として対応すべきもの」[9] と述べている。一方で、に関する国民感情がさまざまである点も指摘しており「家の制度の廃止から五十年を経過した今日でも、家名の存続、祖先祭祀の主宰、その他の多種多様な思い入れが存在するのが現実の姿」[9] と述べている。そのため、本来は「自由意思により、同氏夫婦となるか、あるいは別氏夫婦となるかの選択を認めるのがよい」[9] としつつも、多様な国民感情に配慮し「職業上の支障とか、あるいは祖先祭祀の主宰の必要など特別の事情が存在することを要件とし、その特別事情の存否判断を家庭裁判所にゆだねる」[9] という手法も一案であるとしている。

研究

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ライフワークとして民法身分法戸籍法研究に取り組んでおり[3] [9] 民法学者としての顔も持つ。身分法、戸籍法を研究するようになったのは、最高裁判所家庭局付判事補として家事事件を担当したことがきっかけである[9] 。その後、法務省民事局に出向した際には、戸籍を所管する第二課の課長も務めている[9] 。また、早稲田大学法学部では客員教授として教鞭を執っていた[7]

人物

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大学の志望理由
滝川事件に感銘を受け[3] 、「学問の自由のために戦った伝統にあこがれ」[3] たため、京都大学を志望した[3]
希望進路
司法修習生の頃は、法曹三者の中でも弁護士か裁判官かで迷い[3] 、最終的に裁判官を志望した[3] 。しかし、法務省への出向を経て内閣法制局に再出向することになり「若き時代の志とはかけ離れた人生を歩むことになってしまった」[3] と述懐している。しかし「霞ヶ関永田町との交際を通じて視野も広がり、思考も柔軟となった」[3] と述べるなど肯定的に捉えており、「人生に悔いは残らない」[3] としている。

略歴

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栄典

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著作

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  • 『戸籍法〔全訂版〕』(青木義人と共著)(日本評論社、1982年)
  • 『セミナー戸籍実務』(編著)(ぎょうせい、1988年)
  • 『注解 判例民法4 親族法・相続法』(林良平と共編著)(青林書院、1992年)
  • 『新行政法辞典』(園部逸夫と共編代表)(ぎょうせい、1999年)
  • 『二〇世紀末期の霞ヶ関・永田町――法制の軌跡を巡って』(日本加除出版、2005年)
  • 『立法学講義』(鎌田薫と共編著)(商事法務、2006年)
  • 『法の番人として生きる 大森政輔元内閣法制局長官回顧録』(聞き手・牧原出)(岩波書店、2018年)

脚注

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出典

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  1. ^ a b c 大森政輔『法の番人として生きる』p.1、巻末略歴
  2. ^ a b c 「内閣法制局長官」『内閣法制局長官内閣官房内閣広報室
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「プロフィール」『内閣法制局長官内閣官房内閣広報室
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「経歴」『内閣法制局長官内閣官房内閣広報室
  5. ^ a b 「第82代第一次橋本内閣」『第一次橋本内閣内閣官房内閣広報室
  6. ^ a b 「小渕内閣第1次改造内閣」『小渕内閣内閣官房内閣広報室
  7. ^ a b c d e f g h i 「経歴」『八重洲法律事務所』八重洲法律事務所。
  8. ^ 「大森政輔(おおもりまさすけ)委員」『各委員及び顧問のご紹介|国家公安委員会Webサイト国家公安委員会
  9. ^ a b c d e f g h 「第156回国会――法務委員会――第33号」『衆議院会議録情報 第156回国会 法務委員会 第33号国立国会図書館2003年 7月18日

関連人物

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関連項目

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外部リンク

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先代
大出峻郎
内閣法制局長官
第58代: 1996 - 1999
次代
津野修
法制局長官
法制長官(法務庁)
法制意見長官(法務府)
法制局長官
内閣法制局長官
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