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城山 (キーウ)

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(2022年7月)
キーウの城山

城山(ウクライナ語:Замкова гора、ザームコヴァ・ホラー)は、ウクライナの首都キーウにある歴史的地名ドニプロ川の右岸に位置する小高い、キエフ台地の一部。高さは90〜100メートル[1] 。急斜面を持つ。名称は中世後期のキエフ城にちなむ。古キエフ山シュチェーク山ホンチャリー地区、コジュミャーキ地区、ポジール地区の間に位置する[2] 。最古の遺跡紀元前3世紀に遡る。考古学の資料によれば、5世紀末から6世紀初頭にかけてキエフの原型となる集落があったという[1] 9世紀から10世紀にはキエフ大公国大公離宮があったとされる[2] 1370年代には山頂にキエフ公国公爵の城が建設された[2] 15世紀リトアニア大公国キエフ県が設置されると、キエフ県知事の城となった[2] 1482年クリミア・ハン国メングリ1世ギレイの来襲によってキエウ城が焼失したが、1545年に再建された[2] 17世紀に、アダム・キシーリがキエフ県知事となってキエフ城に置かれたことにちなんで、城山はキシーリ山(Киселівка、キセリーウカ)と呼ばれるようになった[2] 1651年に、フメリヌィーツィキーの乱の際、ウクライナ・コサックがキエフ城を陥落させて廃止した。以後、城山は農地となった。1816年から墓地として利用されるようになり、1834年フローリウ修道院の所有地となった[2] 。これによってキシーリ山はフローリウ山(Флорівська гора)と改名された[2] 。山頂に修道院の教会が建立され、フローリウ墓地の周りに垣が設けられた。ソ連時代には教会と墓地は破壊され、荒地となった。1990年代に山頂にウクライナ・シーチ銃兵隊記念碑が立てられた。

脚注

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  1. ^ a b Івакін 2005:245.
  2. ^ a b c d e f g h 「城山」『キエフ大辞典』

参考文献

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  • (ウクライナ語) Толочко П.П. Історична топографія стародавнього Києва. —Київ, 1970
  • (ウクライナ語) Івакін Г.Ю. Історичний розвиток Києва XIII – середини XVI ст. – Київ, 1996.
  • (ウクライナ語) Івакін Г.Ю. Замкова гора // Енциклопедія історії України. — Київ: Наукова думка, 2005. — Т.3. — С.245.

リンク

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座標: 北緯50度27分45秒 東経30度30分39秒 / 北緯50.46250度 東経30.51083度 / 50.46250; 30.51083

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