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メングリ1世ギレイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メングリ1世ギレイ
۱منكلى كراى
クリム・ハン国君主
バヤズィト2世に謁見するメングリ1世(16世紀の細密画)
在位 1467年
1469年1月 - 1475年3月
1478年 - 1515年 4月17日

出生 1445年
死去 1515年 4月17日
クリム・ハン国、サライチュク
埋葬 クリム・ハン国、サライチュク
配偶者 ヌル・スルタン・ハトゥン
  ザヤン・スルタン・ハトゥン
  マフドゥム・スルタン・ハトゥン
子女
一覧
家名 ギレイ家
父親 ハージー1世ギレイ
宗教 イスラム教 スンナ派
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メングリ1世ギレイ(クリミア・タタール語: ۱منكلى كراى, ラテン文字転写: I. Meñli Geray,キリル文字転写: I Менъли Герай 1445年1515年 4月17日 [1] )は、クリム・ハン国の君主(在位:1467年1469年 - 1475年1478年 - 1515年)。

生涯

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クリム・ハン国の創始者であるハージー1世ギレイ (英語版)の六男[1] [2] 。兄のヌール・デヴレト (英語版)を追放して1467年に即位したが、わずか数ヶ月で戻ってきたヌール・デヴレトによって追い出され、ジェノヴァ領のカッファ [1] に逃亡した。その後、貴族の支持を得て都クルク・イェル (英語版)[1] に進軍し、ヌール・デヴレトを再び追放して1469年1月に復位したが、兄弟たちや貴族による反乱が起こり、1475年3月に兄のハイデル (英語版)によって再び君主位を追われ、またもカッファに逃亡した。同年、ゲディク・アフメト・パシャ (英語版)率いるオスマン帝国軍が内紛に介入してカッファを攻略する[1] と捕えられ、イスタンブールに連行された。

イスタンブールにおいてオスマン帝国のクリム・ハン国に対する宗主権を認めさせられたメングリは、1478年春に皇帝 メフメト2世によってクリミアに送還されて再び君主位に返り咲いた。その後のメングリ1世は死去するまで30年以上君主位を保ち、クリム・タタール人国家の形成に大いに貢献した。1500年にバフチサライ郊外のサライチュク (ロシア語版)ジンジルリ・メドレセ (英語版)(マドラサ)、父ハージー1世の墓廟などを建設した他、ハンサライ (英語版)内に、イタリア人 建築家アロイジオ・ヌオヴォ (英語版)の設計になるデミル・カプ門を造営させた。

1502年、ドニエプル川下流のユズ(現在のオチャーキウ)に要塞を建設し[3] カスピ海方面にいた大オルダ最後の君主であったシャイフ・アフマドを破って[4] ジョチ・ウルスの都であったサライの支配権を獲得した。メングリ1世は「ハーガーン(皇帝)」の称号を名乗り、カスピ=ヴォルガ流域を支配するタタール系の諸ハン国に対し、自らがジョチ・ウルスの正統を継承する君主であると主張した。

死後、サライチュクにあるテュルベ (英語版)(霊廟)に葬られた。

子女

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子にメフメト1世 (英語版)サヒーブ1世 (英語版)がいる[5]

以前はハフサ・スルタン (英語版)の父とされ、スレイマン1世の外祖父と思われていた[1] が、後にこれは誤りと証明された[6] [7]

出典

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  1. ^ a b c d e f Evgeny Khvalkov (August 3, 2017). The Colonies of Genoa in the Black Sea Region: Evolution and Transformation. Routledge. ISBN 978-1351623063  
  2. ^ Thomas Milner. "The Crimea: Its Ancient and Modern History: the Khans, the Sultans, and the czars". 2018年12月12日閲覧。
  3. ^ René Grousset. L’Empire des steppes, Attila, Gengis-Khan, Tamerlan. Paris: Payot 
  4. ^ レフ・グミリョフ 著、山川五生 訳『「ルーシからロシヤまで」』FTM、2018年9月3日、263頁。ISBN 978-5446733002 
  5. ^ Anthony Stokvis. Manuel d'histoire, de généalogie et de chronologie de tous les États du globe, depuis les temps les plus reculés jusqu'à nos jours 
  6. ^ Alan Fisher (1993). "The Life and Family of Suleyman I". Süleymân The Second [i.e. the First] and his time. Isis Press. "That she was a Tatar, a daughter of the Crimean Khan Mengli Giray, was a story apparently begun by Jovius, repeated by other western sources, and taken up by Merriman in his biography of Suleyman." 
  7. ^ "Suleyman", Encyclopedia of Islam , IX, (1997), p. 833 
15世紀半ばのクリミア半島の勢力図(英語)
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