冷泉為満
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄2年4月25日(1559年 5月31日) |
死没 | 元和5年2月14日(1619年 3月29日) |
改名 | 為房(初名)→為満 |
戒名 | 松龍院月照玄覚 |
墓所 | 上善寺 |
官位 | 正三位、権大納言 |
主君 | 正親町天皇→後陽成天皇 |
氏族 | 上冷泉家 |
父母 | 父:冷泉為益 |
兄弟 | 山科言経室、四条隆昌、為満、御春(楠木正辰室)、祐心尼 |
妻 | 不詳→並河寄庵娘→津守国繁娘→加藤光泰娘 |
子 |
不詳、為頼 、藤谷為賢、女子、千世菊丸 信遍、鷹司教平側室、綾小路高有側室 養子:為親 |
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冷泉 為満(れいぜい ためみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿・歌人。権中納言・冷泉為益の子。官位は正三位・権大納言。上冷泉家9代当主。
経歴
[編集 ]天正13年(1585年)に、山科言経・四条隆昌と共に突然勅勘を被り、京都を出奔した。その後、為満の妹が本願寺の門主・顕如光佐の次男興正寺 顕尊の室であった縁を頼り、言経・隆昌と共に本願寺に身を寄せていた。
為満不在の上冷泉家は断絶したものとみなされ、中山親綱の子を立てて為親と名乗らせ、当主とする措置がとられた。慶長3年(1599年)に為満が勅勘を解除されると、為親は冷泉家当主の地位を失ったが、新しい堂上家を創立することが許された。これが後の今城家である。
文禄5年(1596年)の慶長伏見地震では妻を亡くした[1] 。
系譜
[編集 ]- 父:冷泉為益(1516-1570)
- 母:中殿(?-1583) - 不詳
- 妻:不詳
- 子:不詳
- 妻:並河寄庵女 - 天正15年9月5日に結婚、天正16年5月14,5日に離婚
- 妻:津守国繁女 - 母は福照院、天正16年閏5月21日に結婚、慶長1年閏7月12日夜の大地震で死去、享年24
- 妻:加藤光泰女 - 加藤貞泰姉、慶長4年8月20日に結婚、慶長12年4月5日に離婚
- 男子:千世菊丸(千代菊丸) - 成人したかどうかは不明
- 生母不明の子女
- 養子
- 男子:為親(1575-1610) - 中山親綱の次男
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 東京大学史料編纂所 編『言経卿記』 14巻、岩波書店〈大日本古記録〉、1991年、119-120頁。
- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年9月。ISBN 4-490-20243-1。
関連項目
[編集 ]上冷泉家 | |
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下冷泉家 |