コンテンツにスキップ
Wikipedia

佐竹義都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 佐竹義邦」とは別人です。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"佐竹義都" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2019年9月)
 
佐竹義都
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文5年8月23日(1665年 10月1日)[1]
死没 享保10年2月15日(1725年 3月29日)
改名 所化丸(幼名)、義都
別名 四郎三郎、式部(通称)
官位 従五位下 式部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
出羽 久保田新田藩
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹義寘、母:佐竹義隣の娘
石川氏
義堅 ら2男1女
テンプレートを表示

佐竹 義都(さたけ よしくに)は、江戸時代中期の大名出羽 久保田新田藩の初代藩主。佐竹式部少輔家2代。官位従五位下式部少輔

生涯

[編集 ]

佐竹義寘長男

父・義寘は久保田藩主・佐竹義隆の長男であったものの庶子であり家督を相続できなかった。天和2年(1682年)12月21日、第5代将軍・徳川綱吉御目見する。元禄元年(1688年)3月1日、小姓となる。同年4月12日、解任される。元禄14年(1701年)2月11日、久保田藩主・佐竹義処から1万石を分与された。宝永6年(1709年)3月7日、従五位下式部少輔に叙任される。享保5年(1720年)11月27日、隠居して長男・義堅に家督を譲る。

享保9年(1724年)4月23日、乱心のために幽居の身となり、同年6月28日に江戸 深川邸において囲いの身となる。享保10年(1725年)2月15日死去。享年61。

脚注

[編集 ]
  1. ^ 『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店、1973年)p.56
五本骨扇に月丸紋 佐竹式部少輔家2代当主(1665年 - 1720年)
宗家

分家・支流

式部少輔家
壱岐守家
岩崎分家
北家
東家
南家
西家
佐竹氏久保田新田藩初代藩主 (1701年 - 1720年)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /