伏見宮邦家親王
伏見宮邦家親王 | |
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伏見宮 | |
伏見宮邦家親王 | |
続柄 | |
称号 | 禅楽(法名) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
享和2年10月24日(1802年 11月19日) |
死去 |
明治5年8月5日(1872年 9月7日)(69歳没) |
配偶者 | 鷹司景子(妃) |
藤木寿子(女房) | |
上野寿野(女房) | |
鳥居小路信子(女房) | |
中村杣(女房) | |
古山千恵(女房) | |
近藤加寿尾(女房) | |
堀内信子(女房) | |
木村世牟子(女房) | |
伊丹吉子(女房) | |
子女 |
山階宮晃親王 聖護院宮嘉言親王 譲仁入道親王 久邇宮朝彦親王 伏見宮貞教親王 小松宮彰仁親王 北白川宮能久親王 華頂宮博経親王 北白川宮智成親王 伏見宮貞愛親王 清棲家教 閑院宮載仁親王 東伏見宮依仁親王 恒子女王 順子女王 久我誓円 和子女王 碌子女王 文秀女王 則子女王 村雲日栄 貴子女王 他 |
父親 | 伏見宮貞敬親王 |
母親 | 藤原誠子 |
役職 | 式部卿 |
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称号:親王 | |
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伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう、1802年 11月19日〈享和2年10月24日〉 - 1872年 9月7日〈明治5年8月5日〉)は、江戸時代から明治初期の、日本の皇族。世襲親王家の伏見宮第20代および第23代当主。伏見宮貞敬親王の第1王男子。幼称は睦宮(まさのみや)。直系尊属の天皇から見た続柄は、男系では北朝第3代崇光天皇の14世孫、女系では霊元天皇の来孫にあたる。父の貞敬親王は皇位継承候補者として名が挙がったことがある。1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族 11宮家全ての最近共通祖先で、第125代天皇明仁の母方の高祖父(香淳皇后(昭和天皇后)の曽祖父)にあたる。
人物・来歴
[編集 ]文化14年(1817年)、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。邦家と命名された。同月元服し、上野 太守に補任され三品に叙せられた。天保6年(1835年)鷹司政熙(東山天皇曾孫)の女景子(ひろこ)と結婚した。天保12年(1841年)父宮の貞敬親王が薨去したことにより伏見宮を相続した。
しかし同年10月、実子の勧修寺宮済範親王(のちの山階宮晃親王)が妹(戸籍上の妹で、実際は年下だが伯母にあたる)の幾佐宮隆子女王と駆け落ち事件を起こした。事件に激怒した仁孝天皇の命により、翌天保13年(1842年)、第6王子睦宮(貞教親王)に家督を譲り隠居を命じられた。邦家親王は落飾し禅楽と号した。
長く出家隠居のままであったが、元治元年(1864年)2月7日になって復飾を許され、伏見宮を再継承し、邦家の名に復帰した[1]
大政奉還ののち、慶応3年(1867年)に国事御用掛に任じられた。慶応4年(1868年)3月2日、多年に渡り楽道に精進した功労などを賞され、一品に叙せられた。明治5年(1872年)3月、家族とともに京都を離れて東京に移住した。4月10日、家督を第14王子貞愛親王に譲り隠居した。同年8月5日薨去。71歳。
家族
[編集 ]邦家親王は、父の貞敬親王と同様に子福者であった。隠居謹慎期間が長かったため、その間に産まれた子が多い。特に成人することができた男子が多かったために、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけを作った人物とされている。
- 父母:伏見宮貞敬親王、家女房・藤原誠子
- 主な兄弟:邦家親王 - 守脩親王
- 妻子
系図
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明仁の系譜 |
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