人間と市民の権利の宣言
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人間と市民の権利の宣言(にんげんとしみんのけんりのせんげん、仏: Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen)は、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記したものである。単に人権宣言(じんけんせんげん)とも呼ばれ、通常は世界人権宣言などの他の人権宣言と区別するためにフランス人権宣言と呼ばれる。
歴史家オラールが言うように、人権宣言は「アンシャン・レジームの死亡証明書」である。すなわちルフェーブルが解説するように、アンシャン・レジームという過去を否定し、打倒するために作られた宣言であって、未来の社会像を描くものではない。あるべき社会や制度の理想の姿を描いた抽象的な宣言だったのでもなく、人権宣言は「これまでの社会や制度のどのような点を修正しなければならないか」を点検し、議員たちが行うべき改革の見取り図を描いたものだった[1] 。
憲法制定への第一段階として、1789年 8月26日に憲法制定国民議会によって採択された。
経緯
[編集 ]国民議会は、1789年 6月下旬頃から折に触れて、議会が解散され議員たちは弾圧されるかもしれないという恐怖を味わっていたのだが、バスティーユ襲撃という偶発事件とその後の経過によって急に国王に対して優位に立つことになった。そして憲法制定議会として一応は安定したものの、具体的には何にどこから手をつければいいのか戸惑って、活動が低下していた。そんな中で起こった大恐怖によって起きた民衆の蜂起や騒乱の知らせが全国から次々と寄せられるに及んで、議会は無為に座しているわけにもいかないことを自覚する。この頃の国王政府の地方行政は、亡命が相次いだため実質的に機能しなくなっていた。政治機関として実質的に機能しているとともに、政治を主導する正統性を持っているのは、良かれ悪しかれ、国民議会しかいなかったのである[2] 。
8月に入るとすぐに、領主制の改革が論じられるようになる。これは啓蒙思想的な理想の実現という理念的な要素と、騒乱を起こしている農民たちを鎮めるためになんらかの措置をとらなければならないという時事的な要素が混じり合ったものだった。保守的な特権身分議員の抵抗が予想されたので、ブルトン・クラブ(後のジャコバン・クラブ)で打ち合わせた上で、8月4日の晩、封建制の廃止が提案された[3] 。決議を正当な法案とする作業には一週間を要したが、8月11日に採択された封建制廃止令においては、1鳩舎権(貴族のみが鳩小屋を持ちうるという特権)、狩猟権、領主裁判権などの名誉特権と協会が徴収する十分の一税は無償で廃止、2封建的地代は買い戻し得るものとすること、3売官制、租税に関する特権、地方の個別的特権の廃止、4すべての市民があらゆる職業に就き得ることが定められた。また聖職者の待遇は別途に定めることとされたが、教会十分の一税の無償廃止によって基本的な収入源を奪われた聖職者層は不安を抱き、彼らの多くが議会の動きから距離を取るようになった。しかしこの法令によって、身分や出生による差別・特権も地方や地域ごとの差別・特権も否定され、フランス人はすべて平等な条件のもとに生活する統一された「国民」であるという原則が確立した[4] 。
他方で、地方徴収という経済的な特権は、その封建的な起源から切り離し、近代的な契約関係のようにみなすことで、存続をはかった。すなわちアンシャン・レジーム期の金銭貸借においては借り手は元金は返済せず、毎年の金利のみを払い続けるケースが多かったのだが、議会は封建地代をあたかも金利の返済のようにみなし、元金にあたる額(=20年分の地代)をまとめて払えば毎年の金利(=地代)を払う義務は消滅するとみなしたのだった。これを受けた農民層は、全国三部会によって自分たちの負担には大幅な軽減もしくは廃止がもたらされるものと信じていたのに、秋になって地代を払う時期が訪れると、この法令によっても実際には何一つ変わっておらず、これまで通りに地代を払わなければならないことを知って失望し、議会に幻滅を抱くようになった。すなわち議会は農民に一時的な幻想を与えて、とりあえず彼らを鎮めるのに成功したが、その成功自体が新たな問題の種となったのである。また都市の同業組合には、この法令は手をつけなかった。民衆層は同業組合の維持を陳情書などで訴えていたので、厄介を避けるため、議会はこの問題に決着をつけるのは先送りした[5] 。
封建制を原則的・名目的に打ち倒し、身分的・地方的な特権を廃止して社団制をさらに弱体化させた議会は[6] 、人権宣言の起草に取りかかった。もともと平民議員の多くを占める法律関係者には実務家的な傾向があって、抽象的な理念の表明などには関心を持たなかった。また、これから樹立する憲法との整合性を図るため、および憲法に関する議論をあらかじめ制約するような要因を作らないようにするため、人権宣言は戦法草案ができるまで待つべきだという意見もあったが、議会は8月4日に人権宣言の作成をまず行うことを決議した。いつ議会が国王によって解散させられるかわからないため、とりあえず自分たちが目指す目標を明文化し、万一のことがあっても自分たちの理念が後世に伝わるようにしようと考えたのだった[7] 。
8月12日には、すでに多数の草案が議会に提出されており、議会内の諸部会(議員は30の部会に分属していた)そこで同日、討論の基礎となるべき原案を作成するための新しい委員会が選出された。この委員会の作成した原案は、8月17日にミラボーによって議会に提出された。ここで、いま人権宣言を採決するのが時宜にかなっているかどうかが再び問題になり、ミラボー自身が、憲法の完成までそれを延期することを提議した。だが、多数派が規定方針を守ってこうした言説を退けた。結果、委員会の原案は本会議で却下され、それに代わって別の草案が逐条審議の原案として採択された。この原案は8月20日から26日にかけて討議され、その過程で形式の修正が加えられた[8] 。
憲法を修正する権利を人民に認めるという提案もなされたが、この問題は延期されることになった。理由は、憲法が完成された暁には、いまさしあたり17ヶ条に定められた人権宣言も、あらためて再検討され補足されるであろう、という了解があったからである。だがその後、人権宣言の再検討や補足はついに行われなかった。1791年憲法が完成に近づいた1791年 8月に、この点の討議が再開されたとき、いまや全人民の熟知するところとなった人権宣言は、人民の目にはすでに「宗教的で神聖な性質」を帯びたものと映っており、すでに「政治的信条の象徴」にもなってしまったのであるから、それに手を触れることは慎むべきであるという反論が述べられた。そこで、人権宣言とは別に、憲法の前文と、憲法によって保障される「基本的諸規定」の記述とが作成されることになり、こうして1789年の象徴であるこの宣言は、8月26日に国民議会が暫定的に採択した姿のままで残ることになった[9] 。
1791年憲法の冒頭には人権宣言が掲げられた[10] 。それは自由よりも平等が強調され、人権宣言の第一条にあった社会の目的が「共同の幸福」にあると明示された1793年憲法といった場面で変化し[11] 、革命が終わった後に作成された共和暦8年憲法には、人権宣言は添えられていなかった[12] 。
宣言は、ジョージ・メイソンの手になる1776年 6月12日に採択されたバージニア権利章典や、1776年7月のアメリカ独立宣言にもまた基づいている。
宣言の全文
[編集 ]人権および市民権の宣言
国民議会として組織されたフランス人民の代表者たちは、人間の諸権利の無知・忘却または軽視が公共の不幸と政府の腐敗との唯一の原因であることにかんがみて、人間の自然に備わった譲渡すべからざる神聖な諸権利を、一つの厳粛な宣言において提示しようと決意した。その意図するところは、この宣言が社会のすべての構成員の眼前に不断に存在することによって、この宣言が、彼らに、自分たちの諸権利と諸義務とを絶えず想起させるためであり、また、立法権の諸行為と執行権の諸行為とがおよそ政治制度たるものの目的とするところと常に比較対照されうることによって、その諸行為が、常に憲法の維持と万人の幸福とに向かうようになるためである。
第一条 人間は、生まれながらにして自由であり、権利において平等である。社会的な差別は、共同の利益に基づく場合にしか設けられることができない。
第二条 およそ政治的結合というものの目的は、人間の自然に備わった消滅することのない諸権利を保全することである。その諸権利とは、自由、所有、安全、および圧制にたいする抵抗である。
第三条 およそ主権というものの根源は、本質的に国民のうちに存ずる。いかなる団体も、いかなる個人も、明瞭に国民から発していないような権利を行使することはできない。
第四条 自由とは、他人を害しない限りは何をしてもよい、ということにある。したがって、それぞれの人間の自然に備わった諸権利の行使は、社会の他の構成員たちにも同様な諸権利の享受を確保するために設けられる諸限界によってしか、制限されない。その諸限界は、法律によってでなければ定められることはできない。
第五条 法律は、社会にとって有害な行為だけしか禁止する権利を持たない。法律によって禁止されていない一切のことがらは、妨害されるこちがありえないのであり、また、何びとも、法律が命じていないことがらを成すように強制されることはありえない。
第六条 法は一般意思の表現である。すべての市民は、その身みずから、またはその代表者を通じて、法律の作成に参画する権利を有する。法律は、保護を与える場合でも処罰を加える場合でも、万人にたいして同一でなければならない。すべての市民は、法の目には平等であるがゆえに、その能力に応じて、かつ、その徳と才能との区別以外にはいかなる差別もなく、ひとしく、すべての公的な位階、地位、職務に等しく就くことができる。
第七条 何びとも、法律によって定められた場合で、しかも、法律が定めた形式に従ってでなければ、訴追されたり、逮捕されたり、拘禁されたりすることはありえない。恣意的な命令を要請し、発令し、執行しまたは執行せしめる者は、処罰されなければならない。だが、およそ市民にして法律により召喚ないしまたは逮捕さられる者は、ただちに従わなければならず、抵抗すれば有罪となる。
第八条 法律は、厳密かつ明白に必要な刑罰だけしか定めてはならないのであり、また、何びとも、その犯罪にさきだって制定・公布され、かつ、適法的に適用されたなんらかの法律によるのでなければ、処罰されることはありえない。
第九条 いかなる人間でも、有罪と宣告されるまでは無罪と見なされるのであるから、その者を逮捕することが不可欠であると判断される場合でも、その身柄を確保するために必要である以上の一切の過酷な措置は、法律によって厳格に抑止されなければならない。
第十条 何びとも、その意見の表明が法律によって定められた公共の秩序を乱すものでない限りは、その意見ゆえに、たとえそれが宗教上の意見であろうとも、他からおびやかされることがあってはならない。
第十一条 思想および意見の自由な伝達は、人間の最も貴重な諸権利の一つである。したがって、およそ市民たる者は、自由に語り、書き、印刷することができる。ただし、法律によって定められた場合には、その自由の濫用について責任を負わねばならない。
第十二条 人権および市民権を保障するためには、公共の武力が必要である。したがって、その武力は、万人の利益のために設けられるのであって、その武力が委託される人たちの個別的利害のために設けられるのではない。
第十三条 公共の武力を維持するためにも、行政の費用を弁じるためにも、共同の租税支出が不可欠である。その租税支出は、すべての市民たちの間に、その資力に応じて、身分の別なく割り当てられなければならない。
第十四条 すべての市民は、自分自身で、またはその代表者を通じて、公共の租税支出の必要性を確認し、その租税支出を自分の意思で承認し、その使途を追跡し、その割り当て額、割り当て方法、徴収方法、存続期間を決定する権利を有する。
第十五条 社会は、いかなる官公使にたいしても、その公務の執行について報告を求める権利を有する。
第十六条 およそ社会にして、その内部で諸権利の保障が確保されておらず、諸権利の分立も規定されていないような社会は、そもそも憲法をもたない。
第十七条 所有は侵すべからざる権利であるがゆえに、何びとも、適法的に確認された公共の必要が明白に財産の収用を要求する場合で、しかも、正当かつ事前の補償を与えられるという条件のもとにおいてでなければ、所有を奪われることはありえない[13] 。
宣言の要旨
[編集 ]「人」と「市民」が区別されているが、同じ1人の人間を、国家の存在を前提とせずに自然のままの存在として見た時には「人」、国家を想定して国家に参与する存在として見た時には「市民」と呼んでいる[14] 。
第一条でまず自由と平等が人の本質的条件とされるが、自由はこの後、第四条から第十一条まで使って細かく規定されているのに対し、平等は第一条で「権利の平等」と規定されるにとどまっている[14] 。
第二条では、国家によって保全されるべき権利とは自由、所有権、安全、および圧制への抵抗とされる。言い換えると、平等は自然的存在としての人間のあり方ではあっても、政治によって保全されるべき権利ではないということである。また「自由、所有権、安全」という標語は、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールがその著書『政治社会の自然的・経済的秩序』(1767年)で述べたものであって、重農主義の影響が認められる[14] 。
第三条の国民主権の原理の提示は、当時の状況から言えば最も重要であろう。政治的な決定権は国王が神から直接に受け取っているのではないと宣言しているのであって、絶対王政の原理を否定しているのである[14] 。かつて起こったよりも非常に過激な社会の再秩序化(re-ordering of society)の核心を含んでいる。バスティーユ襲撃から6週間そして封建制廃止から3週間後、宣言は国民主権と機会均等の教義を押し出た。
第四条から第六条までが、自由と法全般の関係、第七条から第九条までが刑法ないし刑事裁判と自由の関係、第十条と第十一条が思想と表現の自由を、それぞれ規定している。すなわち第四条から第六条はモンテスキューが言う「国制との関係における政治的自由」、第七条から第九条は「市民との関係における政治的自由」を扱っているのだが、第六条で法を一般意思の表現としているのはルソーの『社会契約論』に拠ったものである。先に書いた重農主義からの影響を含め、議員たちは啓蒙思想を勉強していたことが窺われるが、その摂取の仕方は一つの理論を体系的に取り組むというよりは、いわゆるつまみ食いないし良いとこ取りに近い[14] 。
第六条は、君主政の政治的理論が王権神授説であった前革命的状況と対照をなしている。重ねて、これは三部会(上級聖職者つまり司教・司祭・助祭、貴族、そして第三身分として知られる残余の人々。前二者が特権を持つ)における社会の前革命的区分と好対照をなしている。特に、貴族や他の特権階級に生まれ、そのために特別な権利を享受する(あるいは剥奪される)という人民の理念と矛盾をなす。
第十二条から第十五条までが国家権力のあり方の規定である。そして第十六条で、憲法は諸権利の保障と諸権利の分立を規定せねばならないとされる。ここまでは一定の論理の展開に即して各条文が書かれており、最後に第十六条に示されたような憲法を作成しなければならないという国民議会自身の使命の宣言がなされていて、全体が締められることになるのだが、第十七条がやや唐突に付け加わって、所有権の神聖を宣言している。国民議会の審議においては所有権に触れる予定はなかったのだが、やはり一言触れるべきだという意見が最後に出たため、このような収まりが悪い形で第十七条に仕上がったのである[15] 。第十六条はまた、先行するアメリカ合衆国憲法や同年に提案された権利章典に類似のいくつかの条項を提出していた。合衆国憲法のように、宣言は、共同の防衛に備える必要についての議論と課税についてのいくつかの広範な原理を述べている。宣言はまた、いかに公益信託を果たしたかに関する公的行為者 (public agents) からの説明への公的権利 (public right) を明示している。合衆国権利章典のように、宣言は、刑法の「事後的な ex post facto」適用に備え、無罪の推定、言論と出版の自由、「[宗教上の意見の]表明は法によって設立された公的秩序を乱さないことを規定された」信教の自由の少し弱い保証といった原理を打ち出している。宣言は、収用権 (public right of eminent domain) に反対して所有権 (rights of property) を主張している。すなわち、第十七条になる。
宗教の自由に関しては第十条で、主義主張一般を表現する自由につけ加えるように「たとえそれが宗教的なものであっても」という但し書きのような形で触れられている。プロテスタントの議員は宗教の自由をより積極的に打ち出そうとしたし、ミラボーのように啓蒙主義的な立場からそれを支持する議員もいた。しかし議会の中には聖職者の議員も大勢いて、その中にはカトリックをフランスの国教にするよう主張する者もいたし、カトリック教会がこれまで担ってきた戸籍管理、教育、救貧事業などは今後も維持しようと考える議員は、聖職者でなくとも多かった。また封建制を廃止した際に教会十分の一税を無償廃止したことにより、聖職者の中には動揺と革命への不満が生まれていて、これ以上彼らを刺激するのは得策ではない。そうした種々の立場や思惑の妥協として、主義主張の表現の自由全般の中に紛れ込ませるようなやり方で、信教の自由はさりげなく認められたのだった[1] 。
自由に関して刑事裁判のあり方がまず取り上げられるのは、国王政府が政治犯を封印状などによって恣意的に逮捕し、弾圧するのをやめさせるのが目的であるし、第九条は拷問の廃止を目指している。それに続けて思想信条の自由が唱えられるのは、検閲制度と思想の取り締まりが実在しており、宗教的異端の弾圧も現実のものだったからである。逆に、商業取引の自由は取り上げられず、所有権についても最後に十七条で追加するまで取り上げる予定がなかったのは、国王政府がすでにそれを認めていたからだった[1] 。
全ての市民は「自由、所有、安全、圧制への抵抗」の権利を付与されている。宣言は、「...各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれらの同一の権利の享受を保証するという限界だけしか持たない」という事実に法の必要が由来することを論じている。従って、宣言は、法を「一般意志の表明」として見、権利のこの平等性を促進することと「社会に対して害のある行為だけ」を禁止することを意図していた。
ただし、この宣言において人権が保障されていたのは、「市民権を持つ白人の男性」のみである(Homme=「人」=「男性」、Citoyen=「男性市民」)。これは、当時の女性や奴隷、有色人種を完全な人間として見なさないという観念に基づくものである。これに対し、劇作家オランプ・ド・グージュは、女性にも市民権を与えてその人権を保障するよう要求する、人権宣言を模した17か条からなる宣言文「女権宣言」(女性および女性市民の権利宣言、フランス語: Déclaration des droits de la femme et de la citoyenne)を発表した[16] 。
今日への影響
[編集 ]フランス共和国憲法(1958年 10月4日に採択。別名「第五共和政憲法」)の前文によれば、宣言に述べられた諸原理は立憲的価値 (constitutional value) をもっている。多くの法律や規則は、それらが「憲法院」(Conseil Constitutionnel) や国務院 (コンセイユ・デタ Conseil d'Etat) によって解釈されうるようなそれらの原理に従っていなかったためにとり消された。
1789年の宣言における多くの原理は、現今でも広範囲に及ぶ含蓄をもつ。市民間での不要な差を設けるようにみえる課税の立法や実施は、反立憲的として取り消される。また、民族的な根拠での積極的差別是正措置 (positive discrimination) の提案は、その内容が実施された場合、生まれによってより多くの権利を享受する人々の民族的範疇を設けることになるために、平等の原理を侵害するとして却下される。
遺物
[編集 ]2003年、ユネスコは「世界の記憶」に1789年の宣言の文書を登録した。
翻訳
[編集 ]- 山本桂一「人および市民の権利宣言」高木八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』所収、岩波文庫、1957年
- 樋口陽一・吉田善明編『解説世界憲法集』所収、三省堂、初版1988年、改訂版1991年、第3版1994年、第4版2001年
- 辻村みよ子「人および市民の権利宣言」初宿正典・辻村みよ子編『新解説世界憲法集』所収、三省堂、初版2006年、第2版2010年、第3版2014年、第4版2017年
- 高橋和之「人および市民の権利宣言」高橋和之編『[新版]世界憲法集』所収、岩波書店、初版2007年、第2版2012年
- 石井三記「【資料】一七八九年フランス人権宣言試訳」『名古屋大學法政論集』255巻、2014年3月28日
出典
[編集 ]- ^ a b c 山﨑2018、P.70
- ^ 山﨑2018、P.62-63
- ^ 山﨑2018、P.63
- ^ 山﨑2018、P.64
- ^ 山﨑2018、P.64-65
- ^ アンシャン・レジーム下では、王権のみが階層秩序化された社団の連鎖の頂点に置かれ、数々の団体を掌握することで理論上、国王があらゆる問題に最終決定を下す体裁を取っていた。地域な職能などによって結ばれた多様な組織・団体が存在し、王権は、これらの団体が伝統的に保持していた自治権や免税特権などの権利をあらためて承認して「特権」として、その活動を保証し、支配秩序に組み込んでいた。王権が臣民ひとりひとりをコントロールするような強大な権力を持ち得ていないために、数々の団体を通じて統治せざるをえない状態だった。
- ^ 山﨑2018、P.65
- ^ ルフェーブル1998、P.283-285
- ^ ルフェーブル1998、P.286-287
- ^ 山﨑2018、P.113
- ^ 山﨑2018、P.167
- ^ 山﨑2018、P.291
- ^ ルフェーブル1998年、P.287-291
- ^ a b c d e 山﨑2018、P.69
- ^ 山﨑2018、P.69-70
- ^ オリヴィエ・ブラン、辻村みよ子訳『女の人権宣言―フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』岩波書店、1995年、237-238頁。ISBN 4-00-000256-2。
関連文献
[編集 ]- スコット・クリスチャンソン (英語版)、2018、「人間と市民の権利の宣言」、『図説 世界を変えた100の文書』、創元社 ISBN 978-4-422-21530-3 pp. 86
- 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月、ISBN 978-4-88708-443-8
- ジョルジュ・ルフェーブル「1789年-フランス革命序論」高橋幸八郎、柴田三千雄、遅塚忠躬 訳、岩波文庫、1998年5月、ISBN 978-4003347614
関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]- 『人権宣言』 - コトバンク
- 世界人権宣言テキスト | 国連広報センター
- 世界人権宣言 - 法務省
- 世界人権宣言(仮訳文) - 外務省
この項目は、歴史に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。