マウロ・ビアンキ
マウロ・ビアンキ Mauro Bianchi | |
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基本情報 | |
国籍 |
イタリアの旗 イタリア→フランスの旗 フランス [1] ベルギーの旗 ベルギー (競技ライセンス発行国)[1] |
生年月日 | (1937年07月31日) 1937年 7月31日(87歳) |
出身地 | イタリア王国の旗 イタリア王国・ミラノ |
親族 |
ルシアン・ビアンキ (兄) ジュール・ビアンキ (孫) |
マウロ・ビアンキ(Mauro Bianchi、1937年 7月31日 [2] - )は、イタリア生まれのレーシングドライバーである。出生時の国籍はイタリアで、後にフランスに帰化したが[1] 、レースにはベルギーのASNが発行した競技ライセンスで参戦したため[1] 、レーシングドライバーとしてはベルギー国籍として扱われる。ドライバーからの引退後は自動車技術者として名を残し、特にコントラクティブ・サスペンションの開発でその名を知られる。
元F1ドライバーのルシアン・ビアンキは兄、同じく、ジュール・ビアンキは孫である。
経歴
[編集 ]イタリア・ミラノで生まれた。父親は戦前にアルファロメオのレース部門でメカニックをしていた人物で、戦後の1950年、一家はベルギーに移住した[1] 。
ドライバー
[編集 ]兄のルシアンはレーシングドライバーで、ビアンキ自身もフォーミュラ3(F3)、フォーミュラ2(F2)、スポーツカー耐久レースやラリーなど、様々なカテゴリーのレースに参戦するようになった。
ドライバーとしては、アバルト(1962年 - 1963年)、アルピーヌ(1964年 - 1968年)でワークスドライバーを務め、ル・マン24時間レースにおけるクラス優勝(1967年・P1.6クラス)など、いくつかの成果を収めた。GTカーにおいては、1960年代初めにアバルトで3度の世界タイトルを獲得した[2] [3] 。
そうした実績もあるものの、ビアンキはレースドライバーとしてよりもテストドライバーとして優秀で、かつ開発者としての能力も持っていたため、特にアルピーヌにおいて大きな貢献を果たすことになる[2] 。
初期
[編集 ]1960年にクーパー・クライマックスでフォーミュラ2(F2)に参戦し、翌年にはフォーミュラ1(F1)の非選手権レースであるモデナグランプリ (英語版)にも参戦した[1] 。
1962年から1963年にかけてアバルトにワークスドライバーとして加わり、いくつかの耐久レースやラリーに参戦した[1] 。
アルピーヌ
[編集 ]1955年に設立されたアルピーヌは、ルノーの車両やゴルディーニのエンジンを用いてレースをしており、1963年にルノーのレース部門として正式に認められることになった[4] 。ビアンキは1964年に「アルピーヌ・ルノー」に加入し[2] 、その草創期のワークスドライバーの一人となった。
ビアンキが最初に任されたのは、同社で開発中だった1100 cc仕様のA110試作車の性能試験で[2] 、その後、M64をはじめとするA210の試作車を駆って、ル・マンなどのスポーツカーレースや、ラリーへの参戦を各地で行った。
当時のアルピーヌの車両は小排気量だったため、より大排気量の車両が参戦しているル・マンのようなレースで総合優勝を争うような位置にはいなかった[5] 。そんな中でも、1966年にマカオグランプリで、1.3リッターのアルピーヌ・M65を駆って参戦したビアンキは、2リッターのポルシェ・906(カレラ6)を駆った滝進太郎らを破って優勝した[6] [4] [5] 。
フォーミュラカーにおいては、アルピーヌ(ルノー)にとってシングルシーターによる最初のレースである1964年ポーグランプリ (英語版)で参戦した一人となった[7] 。
1968年にはアルピーヌがフォーミュラ1(F1)に参戦するために開発した「A350」のテストドライバーを務めた[8] [3] 。アルピーヌは同年7月のフランスGPからF1に参戦することを計画し、ビアンキはレースにおいてもドライバーに起用される予定だったと言われていたが[8] 、アルピーヌのF1進出自体が中止となったため、これは実現しなかった[7] 。
引退に至る経緯
[編集 ]1968年9月のル・マン24時間レースで、アルピーヌは、この年からは総合優勝を狙うべく、3リッター化したA220 (フランス語版)を投入した[注釈 1] 。同車を駆ったビアンキは、レース終了まで残り3時間余りという時点(午前11時40分頃)で、アルピーヌ勢ではトップとなる6番手を走行していた[9] [5] 。この時点でブレーキに不具合を来たしつつあることには気づいていたが、ピットアウト直後の混乱で動作確認を怠ったこともあって、ブレーキが作動しなくなっていることに気付かないままコース序盤のテルトル・ルージュに進入して曲がり切れず[3] 、コース脇の立ち木に激突した[9] 。一命をとりとめはしたものの、この事故により車両が炎上したことで、ビアンキは顔と手に火傷を負った[9] [4] [5] [注釈 2] 。
その後、ビアンキは復帰を目指したが[4] [3] 、翌1969年3月、ビアンキも参加していたルマン・テストデイで、兄ルシアンが事故死してしまう[3] 。
自身と兄に相次いだ事故により、ビアンキはドライバーから引退することを決断し、一族全員にもレースを禁じた[5] 。
ビアンキ家のその後
[編集 ]—フィリップ・ビアンキ (2014年)
兄の事故死と自身のドライバー引退に際して、ビアンキは自身の息子フィリップにも、将来に渡って、レースに参戦することを禁じた[5] 。フィリップは、成人後にマルセイユ近郊でカート場を経営するという形でレースとのつながりを維持したものの、その後も父の言いつけを守り続け、自身がレースに参戦することはしなかった[11] [5] 。
しかし、フィリップの息子で、ビアンキの孫のジュール(1989年生)はレーシングドライバーを志し、やがて、F1までステップアップを果たした。そして、ジュールは2014年日本GP中の事故により翌年に死去し、ビアンキは孫の葬儀に参列することになった[11] 。
ドライバー引退後
[編集 ]ビアンキ本人は、ドライバーから引退した後もアルピーヌに留まり、1969年のル・マン24時間レースではアルピーヌのチームマネージャーを務め、1976年までは同社のテスト部門の指揮を執った[3] 。
アルピーヌからも去った後、ビアンキはマウロ・ビアンキ社(SA Mauro Bianchi)の名でエンジニアリング事業を興し、自身が考案したサスペンションでいくつかの特許を取得した[12] [1] 。
1980年代にヴェンチュリに関与したほか、ビアンキが考案したコントラクティブ・サスペンション(Contractive suspension)は、1990年代半ばのマクラーレン・F1(GT1仕様)や、1998年のマクラーレン・MP4-13、1999年のMP4-14でも用いられたという[12] [1] 。このサスペンションは2000年代前半にはスクーデリア・フェラーリでも採用され、マクラーレンと同様、F1車両で使用された[1] 。
コントラクティブ・サスペンションはレーシングカーで用いられていたが、ビアンキは2019年にドラージュ (英語版)に関与し、公道用の高性能車として開発されていたドラージュ・D12 (英語版)向けにこのサスペンションの再設計を行った[1] 。
レース戦績
[編集 ]ル・マン24時間
[編集 ]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回 | 順位 | クラス 順位 |
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1962年 | イタリアの旗 アバルト | イタリアの旗 ヘルベルト・デメツ (フランス語版) | フィアット・アバルト・700S (英語版) | E 850 | 12 | DNF | DNF |
1964年 | フランスの旗 アルピーヌ | フランスの旗 ジャン・ヴィナティエ (英語版) | アルピーヌ・M64 | P 1.15 | 230 | NC | NC |
1965年 | フランスの旗 アルピーヌ | フランスの旗 アンリ・グランシール (フランス語版) | アルピーヌ・M65 | P 1.3 | 32 | DNF | DNF |
1966年 | フランスの旗 アルピーヌ | フランスの旗 ジャン・ヴィナティエ | アルピーヌ・A210 | P 1.3 | 306 | 14位 | 4位 |
1967年 | フランスの旗 アルピーヌ | フランスの旗 ジャン・ヴィナティエ | アルピーヌ・A210 | P 1.6 | 311 | 13位 | 1位 |
1968年 | フランスの旗 Ecurie Savin-Calberson | フランスの旗 パトリック・デパイユ | アルピーヌ・A220 (フランス語版) | P 3.0 | 257 | DNF | DNF |
Source: [13] |
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]- ^ a b c d e f g h i j k "Mauro Bianchi" (英語). Delage. 2023年3月21日閲覧。
- ^ a b c d e Alpine & Renault(Smith 2008)、p.26
- ^ a b c d e f Alpine & Renault(Smith 2008)、p.27
- ^ a b c d オートスポーツ 1969年2月号(No.44)、「ファクトリー・ルポ アルピーヌ・ルノー」(ビル大友) pp.12–18
- ^ a b c d e f g F1速報 2015年ハンガリーGP号、「ビアンキ家のレガシー」(林信次) pp.44–45
- ^ オートスポーツ 1967年1月号(No.18)、「個人エントリーの"だいご味"」(滝進太郎) pp.31–33
- ^ a b Alpine & Renault(Smith 2008)、「Foreword - Mauro Bianchi」 p.8
- ^ a b オートスポーツ 1968年8月号(No.38)、「出場が遅れるアルピーヌF-1」 p.129
- ^ a b c オートスポーツ 1968年11月号(No.41)、「ル・マン24時間のすべて」(ビル大友) pp.14–28中のp.23
- ^ Alan Baldwin (report), Nick Mulvenney (edit) (2017年7月18日). "PROFILE-Motor racing-Bianchi had a bright future" (英語). ロイター. 2023年3月21日閲覧。
- ^ a b "ビアンキ選手の葬儀、21日に故郷の仏ニースで". AFP BB News. AFP通信 (2017年7月20日). 2023年3月21日閲覧。
- ^ a b "McLaren's contractive suspension system" (英語). GrandPrix.com (1998年6月29日). 2023年3月21日閲覧。
- ^ "All Results of mauro Bianchi" (英語). racingsportscars.com. 2023年3月21日閲覧。
参考資料
[編集 ]- 書籍
- Roy Smith (2008) (英語). Alpine & Renault - The Development of the Revolutionary Turbo F1 car 1968 to 1979. Veloce Publishing. ASIN 1845841778. ISBN 978-1-84584-177-5 ※(注記)ビアンキはこの書籍に献辞を寄せている。
- 雑誌 / ムック
- 『オートスポーツ』(NCID AA11437582)
- 『1967年1月号(No.18)』三栄書房、1968年8月1日。ASB:AST19670101。
- 『1968年8月号(No.38)』三栄書房、1968年8月1日。ASB:AST19680801。
- 『1968年11月号(No.41)』三栄書房、1968年11月1日。ASB:AST19681101。
- 『1969年2月号(No.44)』三栄書房、1969年2月1日。ASB:AST19690201。
- 『F1速報』(NCID BB22714872)
- 『2015年 ハンガリーGP号』三栄書房、2015年8月27日。ASIN B013HM7OH4。ASB:FSH20150730。
- 配信動画
- Michelin Motorsport - YouTubeチャンネル
- Michelin’s early days in motorsport - Talking history - Michelin Motorsport (フランス語). Michelin Motorsport. 8 April 2020. ※(注記)アルピーヌとミシュランの関係の端緒にビアンキが関わっていたことを、ピエール・デュパスキエが証言している。
タイトル | ||
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先代 ジョン・マクドナルド (英語版) |
マカオグランプリ優勝者 1966年 |
次代 トニー・マウ |
2021年 - 現在 ワークスチーム |
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1976年 試作・試走のみ |
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1968年 試作・試走のみ |
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