ナオキ
ナオキ | |||
---|---|---|---|
品種 | サラブレッド [1] | ||
性別 | 牡 [1] | ||
毛色 | 栗毛 [1] | ||
生誕 | 1969年 4月25日 [1] | ||
死没 | 1990年 5月5日(22歳没)[2] | ||
父 | サウンドトラック[1] | ||
母 | エイトクラウン [1] | ||
母の父 | ヒンドスタン [1] | ||
生国 | 日本の旗 日本(北海道 三石町)[1] | ||
生産者 | 大塚牧場[1] | ||
馬主 |
桜山ホース(株)[3] 福留砂子[1] | ||
調教師 | 田中康三 [1] (栗東) | ||
競走成績 | |||
生涯成績 | 30戦13勝[1] | ||
獲得賞金 | 1億6976万1200円[1] | ||
| |||
テンプレートを表示 |
ナオキ(欧字名:Naoki、1969年 4月25日 - 1990年 5月5日)は、日本の競走馬、種牡馬 [1] 。
1975年の宝塚記念優勝。その他、鳴尾記念と金杯(西)をレコードタイムで優勝、中京記念2勝など。中京競馬場では7戦6勝の成績を残した。
母のエイトクラウンに続き、宝塚記念母子制覇を果たした。[注釈 1] 。4歳年下の半弟に天皇賞2着2回のクラウンピラード(父:ダイハード)がいる。
生涯
[編集 ]デビューまで
[編集 ]阪神3歳ステークスと宝塚記念を制したエイトクラウンは、6歳まで走り、北海道 三石町の大塚牧場で繁殖牝馬となった[4] 。初仔は、双子のため流産 [4] 。翌年はサウンドトラックが種付けされ、1969年4月25日、2番仔となる栗毛の牡馬(後のナオキ)が誕生した[4] 。生産した大塚牧場の大塚慎太郎は、当歳の歩様を「アフリカのチーターのようにしなやかな仔馬[4] 」と評し、胴が長く後肢が発達していた[4] 。
愛知トヨタ自動車会長だった山口昇が、息子[注釈 2] の山口直樹から「ナオキ」と命名され[4] 、栗東トレーニングセンターの田中康三厩舎に入厩した[4] 。
競走馬時代
[編集 ]3歳 - 4歳(1971 - 72年)
[編集 ]1971年8月28日、函館競馬場の新馬戦に佐々木昭次が騎乗してデビューし、10頭立てのブービー賞9着に敗れた[4] 。続く阪神競馬場の未勝利戦でも5着に敗れた後、管骨にヒビが入り11か月の休養を強いられた[4] 。1972年8月、小倉競馬場の未勝利戦で復帰。初戦こそ3着に敗れたが、2戦目の未勝利戦で初勝利を挙げ、京都競馬場の200万円以下で初めてダート戦に参戦し連勝[4] 。その後芝に戻り、桂川特別3着以降、中京競馬場の条件戦を再び連勝とした[4] 。
5歳 - 6歳(1973 - 74年)
[編集 ]5歳となり、中京競馬場のオープン競走、7頭立てブービー6番人気で出走し、レコードを更新し3連勝となった[4] 。3月4日、重賞初挑戦となる中京記念に6番人気で出走。大外枠での発走から、ハナを奪い逃げると、追い込むシングンと4分の3馬身差で先頭で駆け抜けて重賞初勝利、4連勝となった[5] 。続いて、天皇賞(春)に目標を据えて、鳴尾記念に出走[5] 。2番手から進んだが、シンザンミサキがレコードを更新するタイムで走り、その2着に敗れた[5] 。天皇賞(春)では、タイテエムが優勝し、再びシンザンミサキに先着され4着に敗退した[5] 。阪神のオープン競走に、マイルの距離を逃げ切り、レコードで制したのち、宝塚記念に挑戦するも、ハイペースで逃げるハマノパレードと、タイテエムの争いに半馬身遅れて3着に敗れた[5] 。
夏休みを挟んで、10月のオープンで復帰[5] 。2戦目のオープン競走では逃げ切り勝利し、11月25日の天皇賞(秋)に参戦した。前走でオールカマー勝利のタニノチカラと、目黒記念(秋)3着のハクホオショウに次ぐ3番人気の評価だった[5] 。2番手から抜け出しを図ったが、直線で全く伸びず6着に敗れた[5] 。その後、有馬記念に出走するも6着に敗退した[5] 。6歳となり、金杯(西)では1番人気に推され、好位から抜け出して3馬身差の勝利し、重賞2勝目となった[6] 。しかし、骨折した部分の前脚に違和感が生じ、骨膜炎の診断を受け、再び戦線を離脱[6] 。秋に復帰し、天皇賞(秋)に出走するも15着に敗退した[6] 。
7歳(1975年)
[編集 ]天皇賞(秋)から約2か月の休養を経て、2月8日、中京競馬場のオープンで復帰し、後方待機から差し切り勝利[6] 。続く中京記念でもハイペースを自ら演出する逃げを見せて、追い込むハシストームをアタマ差退け中京記念2勝目を挙げた[6] 。再び、天皇賞(春)を目標に据えて、叩き台として鳴尾記念に出走、負担重量59.5kgのトップハンデが課される中、2番人気に推された[6] 。中位を進み、直線コースで前を行く1番人気のクリオンワードを捕らえ、追い上げるメジロジゾウに半馬身で4勝目を挙げた[6] 。レコードタイムでの優勝で、1966年に制した母エイトクラウンに続いて母仔制覇となった[6] 。目標であった天皇賞(春)、キタノカチドキが単勝支持率50パーセントの人気を集める中、6番人気で出走した。先頭でレースを引っ張ったが、直線では余力なく8着に敗れた[6] 。佐々木は折り合いをつけることができなかったと回顧した[6] 。
1か月後の宝塚記念は、ニホンピロセダンに次ぐ2番人気で出走した[6] 。序盤からハナを奪って逃げ、スローペースを刻み、後方待機から追い込みを得意とするニホンピロセダンが第3コーナーで2番手まで位置を上げていた[6] 。ニホンピロセダンが迫るとナオキは加速し、失速したニホンピロセダンをかわしたモア―キャッスルなどを退けて、2馬身半離して勝利した[7] 。鳴尾記念と同様に、宝塚記念母仔制覇を果たした[7] 。その後、高松宮杯で4着と中京競馬場で初めて敗れ、1番人気に推された京都記念では11着に終わった[7] 。5回目の天皇賞挑戦となった天皇賞(秋)で7着に敗退後、左後肢の第一趾骨を骨折が判明し、競走馬を引退した[7] 。
種牡馬時代
[編集 ]競走馬引退後、生まれ故郷の大塚牧場にてシンジケートを結成して種牡馬となった[2] 。1983年までに338頭と交配し、200頭の産駒がデビューしたが成績が悪く、1983年にシンジケートを解散[2] 。秋に、宮城県 加美郡 小野田町の薬莱軽種トレーニングセンターに移り、少ない頭数ながらも種牡馬として供用された[2] 。1990年5月5日午後3時頃、しばらくぶりの種付けで牝馬に乗りかかろうとした際に、痙攣して転倒しほどなく死亡、22歳であった[2] 。
種牡馬成績
[編集 ]主な産駒
[編集 ]- チェリーテスコ(カブトヤマ記念)
- タニノケンリユウ(報知グランプリカップ)
ブルードメアサイアーとしての主な産駒
[編集 ]血統表
[編集 ]1939 Fair Trial
1947 Straight Deal
1939 Solario
1942 Noble Star
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 親子制覇に範囲を広げても、2011年にグラスワンダー産駒のアーネストリーが優勝するまで、エイトクラウン・ナオキ母子の事例が唯一であった。ちなみに、鳴尾記念も母子制覇を達成している。
- ^ 養子ののち、娘婿となる。
- ^ 2010年のフィリーズレビュー勝ちの「サウンドバリアー」とは別の馬。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『優駿』1991年2月号、日本中央競馬会、1991年2月1日。
- 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 59】正統派マイラー ナオキ」