コンテンツにスキップ
Wikipedia

ディフェンス (装甲巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディフェンス
艦歴
発注 1904-05年海軍計画
起工 1905年 2月25日
進水 1907年 4月24日
就役 1909年 2月9日
退役
その後 1916年 5月31日 ユトランド沖海戦で戦没
除籍
性能諸元
排水量 14,600 トン
全長 490.0 ft(149.4 m)
全幅 74.5 ft(22.7 m)
吃水 26 ft(7.9 m)
機関 ヤーロー式水管缶24基
4気筒三段膨張式機関2基2軸
27,000 hp
最大速 22.9ノット
乗員 903名(士官54名、下士官兵849名)
兵装 9.2インチ(234 mm)砲4門(連装2基)
7.5インチ(191mm)砲10門
12ポンド砲16門
18インチ(457mm)魚雷発射管5門

ディフェンス (HMS Defence) は、1907年進水のイギリス海軍装甲巡洋艦マイノーター級。最後に建造されたイギリス海軍の装甲巡洋艦である。

艦歴

[編集 ]

1905年2月25日起工。1907年4月24日進水。1909年2月9日就役。

1914年初頭に地中海に配備される。第一次世界大戦開戦時、ゲーベン追跡戦に関与する。それから、ドイツのシュペー艦隊の捜索に参加するため南大西洋へ向かうよう命じられた。しかし「ディフェンス」が到着する前にフォークランド沖海戦が生じ、この海戦でシュペー艦隊は壊滅した。

ユトランド沖海戦

[編集 ]
ユトランド沖海戦における「ディフェンス」を描いた絵画。
僚艦「ウォーリア」とともに独艦隊より砲撃を受けている様子が判る。

1916年5月31日、第1巡洋艦戦隊の旗艦としてユトランド沖海戦に参加した[1] 。「ディフェンス」にはロバート・アーバスノット (英語版)少将が将旗を掲げて坐乗した[1] 。他にこの戦隊には「ウォーリア」、「デューク・オブ・エジンバラ」、「ブラック・プリンス」が属していた。

「ディフェンス」は英独両艦隊の間を大破・漂流する独軽巡洋艦「ヴィースバーデン」に止めを刺しに向かったが[1] 、この際に大洋艦隊の戦艦及び巡洋戦艦の射線に入り込み、戦艦「カイザー」から致命傷となる命中弾を受けた[2] 。このため主砲弾薬庫付近で火災が生じた。さらに7.5インチ副砲弾薬庫に延焼・誘爆を引き起こして爆発を起こした[3] [4] 。「ディフェンス」は18時20分に大爆発を起こして沈没、アーバスノット提督を含む乗組員全員が戦死した[1] 。戦死者数は893人〜903人とされる[3]

1984年、「ディフェンス」の残骸がクライブ・カッスラーにより発見された。「ディフェンス」は爆発・轟沈したにもかかわらず状態良く残っていた。現在、「ディフェンス」の残骸は1986年戦跡保護法 (英語版)によって保護されている。

脚注

[編集 ]

注釈

[編集 ]


出典

[編集 ]
  1. ^ a b c d Halpern, Paul G. "Arbuthnot, Sir Robert Keith, fourth baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30432 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ 宮永, 忠将 著、市村 弘 編『世界の戦艦プロファイル ドレッドノートから大和まで』大日本絵画、東京都千代田区、2015年、49頁。ISBN 9784499231527 
  3. ^ a b Burt, R. A. (1987). "Minotaur: Before the Battlecruiser". Warship (London: Conway Maritime Press) 42: 91-92. ISSN 0142-6222. 
  4. ^ Brown, David K.『The Grand Fleet: Warship Design and Development 1906–1922』(reprint of the 1999)Caxton Editions、London、2003年、167頁。ISBN 1-84067-531-4 

外部リンク

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /