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セシリー・ネヴィル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セシリー・ネヴィル
Cecily Neville

出生 (1415年05月03日) 1415年 5月3日
イングランド王国の旗 イングランド王国ダラムレイビー城
死去 (1495年05月31日) 1495年 5月31日(80歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国、バーカムステッド城
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国、フォザリングヘイ
配偶者 3代ヨーク公 リチャード・プランタジネット
子女 一覧参照
父親 ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル
母親 ジョーン・ボーフォート
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セシリー・ネヴィル(Cecily Neville, 1415年 5月3日 - 1495年 5月31日)は、15世紀 イングランドの貴族夫人。ヨーク公 リチャード・プランタジネットの妻で、イングランド王 エドワード4世リチャード3世の母である。

生涯

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出自

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セシリー・ネヴィルはウェストモーランド伯 ラルフ・ネヴィルジョーン・ボーフォートの娘である。母方の祖父母はランカスター公 ジョン・オブ・ゴーントキャサリン・スウィンフォードであり、夫のヨーク家と敵対したランカスター家の支族であるボーフォート家と母方でつながっている。

異母兄にネヴィル卿ジョン・ネヴィル、同母兄にソールズベリー伯 リチャード・ネヴィル、ダラム司教ロバート・ネヴィルケント伯 ウィリアム・ネヴィルがおり、キングメーカーと称されたウォリック伯兼ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルは甥に当たる。また、大姪でウォリック伯の娘イザベル・ネヴィルアン・ネヴィル姉妹はそれぞれセシリーの息子であるクラレンス公 ジョージとリチャード3世に嫁いでいる。

セシリーにはいくつかの呼び名があった。

  • 「レヴィの薔薇」(ダラムのレヴィ城で生まれたことに由来)
  • 「誇り高きシス」(誇り高い気質に由来)

また、歴史的には信心深い人物として知られている。

自身では名をCecilyではなくCecylleと署名していた。

ヨーク公妃

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イングランド北部ダラムレイビー城で生まれた(後にその美貌から「レイビー城の薔薇」と呼ばれた)。セシリーが10歳の時(1425年)、父は彼女を当時14歳のヨーク公リチャード(後の薔薇戦争ではヨーク派の指導者となる)と婚約させた。そのすぐ後に父は戦死したが、婚約は解消することなく、1437年に2人は正式に結婚した。2人の娘のアンはノーサンプトンシャー1439年8月に生まれた。

ヨーク公が1441年にフランス総督になってルーアンに赴任した時、セシリーは夫について行った。2月に息子ヘンリーが生まれたが、すぐ後に死んだ。

未来の国王であるエドワードは、ルーアンで1442年4月28日に生まれ、すぐに洗礼を施された。エドワードの誕生日については、ヨーク公不在の時期にあたるため、後にエドワードがヨーク公の実子ではないという議論がなされることになる。実際の所はどうなのかは不明であるが、事実としてエドワードは早産であり、早逝の恐れがあったので急いで洗礼を施された。

1453年頃、ヨーク公がサマセット公 エドムンド・ボーフォート(セシリーの母方の従兄)の権勢に憤慨し始めた頃に、セシリーはヨーク公の代理として国王ヘンリー6世マーガレット・オブ・アンジューと話をした。ヘンリー6世がその年遅くに神経衰弱をこうむった時、ヨーク公は自身を摂政(護国卿)として認めさせた。

薔薇戦争の勃発後、ヨーク公がアイルランドやヨーロッパ大陸に逃亡した時でも、セシリーはラドローに残った。おそらく姉のアン・ネヴィル(バッキンガム公 ハンフリー・スタッフォードの妻)に保護されていたのだろう。同時に彼女は、内密にヨーク派のためにも活動を行っていた。

ラドフォード橋の戦いにおける大敗でヨーク派が瓦解して、ヨーク公自身もアイルランドに逃亡していた1459年11月、ヨーク派の処遇を検討する議会が開かれた。セシリーは夫の嘆願のためロンドンに出向いた。当時の記録によると、もしヨーク公が8日以内に議会に出頭すれば恩赦にするよう、国王を説得していたと言われる。結局ヨーク公の所領は没収されたが、自身と子供たちのために年間600ポンドの年金を受け取ることに成功した。1460年1月、彼女はケントを訪問し、ケント派の代表者と来るべき同盟について会談した。

ノーサンプトンの戦いでのヨーク派の大勝を受けて、1460年7月にセシリーはロンドンに移り住み、子供たちやジョン・パストンと一緒に住んだ。10月に夫が公式にヘンリー6世の王位継承者になると、セシリーも次期王妃になり、史官ジョン・ハーディングからイングランド編年史のコピーを受け取りさえした。

ところが、12月30日のウェイクフィールドの戦いでヨーク派は惨敗する。ヨーク公のほか、次男のラトランド伯 エドムンド、セシリーの兄ソールズベリー伯も戦死した。セシリーは幼い息子たちをブルゴーニュ フィリップ3世(善良公)の宮廷に預ける。これによってブルゴーニュはヨーク派と同盟を結ぶことになる。

王母

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セシリーがロンドンのベイナード城に移ると、そこがヨーク派の作戦本部になった。長男エドワードはうまくランカスター派に対する戦いを続け、ランカスター派を打ち破ってエドワード4世として即位した。セシリーは王太后になった。

エドワード4世の統治の初期には、セシリーは息子の横にあって影響力を行使した。1461年、彼女は紋章を修正した。これは夫が正当な国王であったことをほのめかすために、イングランドの王室の紋章を取り入れたものである。エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルと結婚した時、彼は母が住み慣れた場所に住み続けられるよう、王妃のために新しく居館を建てた。

1469年、セシリーの甥(兄の子)であり、息子のクラレンス公ジョージの義父でもあるウォリック伯リチャード・ネヴィルが国王に反旗を翻した。ウォリック伯は「エドワード4世は私生児であり、本当の父親はルーアンのベンバーンという名前の弓の射手であった」という噂を広め始めた。ウォリック伯は、正統な王位継承者はクラレンス公であるとしたかったのである(もっともウォリック伯は以前にマーガレット・オブ・アンジューに対して似たような非難をしており、後にウィリアム・シェイクスピアは『リチャード三世』の劇中でこのクレームを使っている)。セシリーがこの問題についてほとんど人前で語らなかったため、真偽が定かでなかったにもかかわらず、彼女は姦通の罪で告発された。

ウォリック伯の反乱に対してセシリーは、多分関係者を和解させようとして、サンドウィッチを訪問した。また、反乱が最初に失敗した時、セシリーはエドワード4世とクラレンス公兄弟を和解させるため、共にロンドンに招待した。平和は長くは続かなかったが、次の戦争の時にも、彼女は息子たちを和解させようとしている。

1483年にエドワード4世は亡くなり、孫エドワード5世が短期間在位、彼を廃位した末子がリチャード3世として即位したが、1485年ボズワースの戦いでリチャード3世が敗死し、ボーフォート家の血を引くヘンリー7世が王位に就いた。翌1486年にヘンリー7世はセシリーの孫娘でエドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨークを王妃にした。ヘンリー7世の時代、セシリーは宗教活動に献身し、この時の活動から「信心深い」というイメージが定着することになる。

セシリーは1495年に亡くなった。ローマ教皇による免罪と共に埋葬された。

子供

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セシリーとヨーク公リチャードの間の子供は以下の通りである。

  1. ジョウン(1438年 - ?)
  2. アン(1439年8月10日 - 1476年1月14日) - エクセター公 ヘンリー・ホランドに嫁ぐ。
  3. ヘンリー(1441年2月10日 - ?) - 早逝
  4. エドワード4世(1442年4月28日 - 1483年4月9日)
  5. エドムンド(1443年5月17日 - 1460年12月31日) - ラトランド伯
  6. エリザベス(1444年4月22日 - 1503年1月以降) - サフォーク公 ジョン・ド・ラ・ポール
  7. マーガレット(1446年5月3日 - 1503年11月23日) - ブルゴーニュ公シャルル
  8. ウィリアム(1447年7月7日 - ?)
  9. ジョン(1448年11月7日 - ?)
  10. ジョージ(1449年10月21日 - 1478年2月18日) - クラレンス公
  11. トーマス(1451年 - ?)
  12. リチャード3世(1452年10月2日 - 1485年8月22日)
  13. ウルスラ(1454年 - ?)

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