スペウシッポス
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
17世紀に想像で描かれたスペウシッポス | |
別名 | 別名 |
---|---|
生誕 |
紀元前407年頃 ギリシア・アテナイ |
死没 |
紀元前339年 ギリシア・アテナイ |
時代 | 古代哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
学派 | プラトン主義とピタゴラス学派の調和 |
研究分野 |
イデア論を捨てピタゴラス学派を研究 認識論、形而上学、倫理の研究 |
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スペウシッポス(古希: Σπεύσιππος、英: Speusippus、紀元前407年頃 - 紀元前339年)は、古代ギリシア・アテナイの哲学者、数学者。アテナイにアカデメイアを開いたプラトンの甥(プラトンの姉妹 ポトネの息子)[1] で、プラトンの死後、紀元前347年から紀元前339年にかけて第2代アカデメイア学頭を務めたことで知られる[2] 。
アリストテレスが述べた「今の人々にとっては数学的諸学が哲学であることになってしまった」と言う言葉はスペウシッポスに向けたものだと言われ[3] 、スペウシッポスがプラトンの後を継いで第2代アカデメイアの学頭になるとアリストテレスはアカデメイアを去ってしまった。
プラトンはイデア論を唱えていたものの、スペウシッポスが学頭になるとイデア論を排除し、プラトン主義とピタゴラス学派の調和を試みたが、数学的対象を第一義的な実在と解する点など、プラトン主義を離れてピタゴラス学派や数論へ傾倒したためにアリストテレスはアカデメイアを離れたとされる。
スペウシッポスの主張には、倫理学に於いて快楽はそれ自体悪であると説いたり[4] したが、現存するスペウシッポスの著作は断片的である。
晩年は身体的麻痺に苦しみ、中風で亡くなったと言われる[5] 。アカデメイアの学頭は第3代のクセノクラテスに引き継がれた。
脚注・参考文献
[編集 ]脚注
[編集 ]- ^ ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』4.1
- ^ スペウシッポス - コトバンク(世界大百科事典内のスペウシッポスの言及)
- ^ 万有百科大事典 4 哲学・宗教 1974, p. 320.
- ^ 哲学事典, 1973 & p789.
- ^ ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』4.3
参考文献
[編集 ]- 田中享英、岩崎武雄、中村元、古川哲史、堀一郎監修 著、相賀徹夫 編『万有百科大事典 4 哲学・宗教』(初版)小学館〈日本大百科全書〉(原著1974年1月20日)。
- 林達夫、野田又夫、久野収、山崎正一、串田孫一監修 著、下中邦彦発行 編『哲学事典』(初版第4刷)平凡社(原著1973年8月20日)。
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