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クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア

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(2022年2月)
クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア
Clotilde di Borbone-Francia
サルデーニャ王妃
在位 1796年 10月16日 - 1802年 3月7日

出生 (1759年09月23日) 1759年 9月23日
フランス王国
ヴェルサイユ宮殿
死去 (1802年03月07日) 1802年 3月7日(42歳没)
ナポリ王国の旗 ナポリ王国
ナポリ
埋葬 ナポリ王国の旗 ナポリ王国
サンタ・カテリーナ・ア・キアイーア教会
結婚 1775年 8月27日
ヴェルサイユ
配偶者 サルデーニャカルロ・エマヌエーレ4世
家名 ブルボン家
父親 ルイ・フェルディナン
母親 マリー=ジョゼフ・ド・サクス
サイン
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尊者
クロティルデ・ディ・フランチア
尊者
崇敬する教派 カトリック教会
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クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア(イタリア語全名:Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia, 1759年 9月23日 - 1802年 3月7日)は、サルデーニャカルロ・エマヌエーレ4世の妃。フランスルイ16世ルイ18世シャルル10世の妹。フランス語名はクロティルド・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France)。

生涯

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フランスのドーファン(王太子)ルイ・フェルディナンと妃マリー=ジョゼフ・ド・サクスの次女としてヴェルサイユで生まれた(長女は夭折しているため、実質的には長女)。ルイ16世ルイ18世シャルル10世の妹、エリザベート王女の姉にあたる。

1775年、当時サルデーニャ王子であったカルロ・エマヌエーレと結婚した。クロティルデの祖父ルイ15世の母であるマリー・アデライード・ド・サヴォワはサルデーニャ王家出身で、カルロ・エマヌエーレの大伯母にあたる。また、カルロ・エマヌエーレの妹のマリーア・ジュゼッピーナマリーア・テレーザがそれぞれ、クロティルデの兄であるプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(のちのルイ18世)およびアルトワ伯シャルル(のちのシャルル10世)と結婚していた。

夫との間には子が生まれなかったが、夫婦仲は良好であった。生涯を通じて故国フランスへ戻ることは一度もなく、1789年のフランス革命発生後、国を脱出した親族らをトリノへ迎え入れた。兄アルトワ伯、叔母アデライード王女、ヴィクトワール王女は、一時期クロティルデの元に身を寄せていた。

1796年、カルロ・エマヌエーレ4世が即位する。当時、フランス革命政府とサルデーニャ王国は交戦中であった。1798年以降、大陸本土に持つ領土をフランスに占領され、カルロ・エマヌエーレ一家はサルデーニャ島へ逃れることになった。統治に関心の薄かったカルロ・エマヌエーレは、王妃クロティルデとともに裕福なコロンナ家の食客となり、ローマナポリで生活した。

1802年3月、クロティルデは病のためナポリで死去し、ナポリのサンタ・カテリーナ・ア・キアイーア教会に埋葬された。同年6月にカルロ・エマヌエーレ4世は退位し、弟ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世が即位した。

1804年、カトリック教会によって列福・列聖調査が開始され、1982年尊者の称号を受けた。

クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア

1759年 9月23日 - 1802年 3月7日

イタリア王室
先代
マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ
サルデーニャ王妃 (英語版)
1796年10月16日 – 1802年3月7日
次代
マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ

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