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エレニオ・エレーラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はエレーラ第二姓(母方の)はガビランです。
エレニオ・エレーラ
インテル監督時代(1964–65シーズン)
名前
本名 エレニオ・エレーラ・ガビラン
Helenio Herrera Gavilán
ラテン文字 Helenio Herrera
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
フランスの旗 フランス
生年月日 (1910年04月10日) 1910年 4月10日
出身地 ブエノスアイレス
没年月日 (1997年11月09日) 1997年 11月9日(87歳没)
監督歴
1944-1945
1945-1948
1948-1949
1949-1952
1952
1953
1953-1956
1956-1958
1958-1960
1960-1968
1968-1970
1973-1974
1978-1979
1979-1981
Puteaux CSM
フランスの旗 スタッド・フランス
スペインの旗 レアル・バリャドリード
スペインの旗 アトレティコ・マドリード
スペインの旗 CDマラガ
スペインの旗 デポルティーボ
スペインの旗 セビージャFC
ポルトガルの旗 CFベレネンセス
スペインの旗 FCバルセロナ
イタリアの旗 インテル・ミラノ
イタリアの旗 ASローマ
イタリアの旗 インテル・ミラノ
イタリアの旗 リミニ
スペインの旗 FCバルセロナ
しかくテンプレート(しかくノート しかく解説)しかくサッカー選手pj

エレニオ・エレーラ・ガヴィラン(Helenio Herrera Gavilán1910年 4月10日 - 1997年 11月9日)は、アルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。あだ名は『魔術師』。幼少期にフランスへ帰化している。

経歴

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現役時代、レッドスター・オリンピックスタッド・フランスFCOシャルルビルなどでプレーした彼は、引退後に指導者の道を歩む。

1945年、古巣スタッド・フランスで指揮を執った後、1949年レアル・バリャドリードの監督となり、アトレティコ・マドリードCDマラガデポルティーボ・ラ・コルーニャセビージャFCCFベレネンセスで監督を務め、特にアトレティコ・マドリードではリーグを連覇した。そして1958年FCバルセロナの監督に就任し、全盛期にあったレアル・マドリードを抑えてまたもリーグ連覇を達成した。にもかかわらずクラブから解雇を言い渡されたエレーラは、1960年にバルセロナのスター選手であり同年にバロンドールを獲得したルイス・スアレスと共にインテル・ミラノへと移った。

インテル・ミラノでは、カテナチオと呼ばれる守備に秀でた戦術を採り[1] スクデット3回、チャンピオンズカップインターコンチネンタルカップを2連覇する。その強さ、スクデットを5年連続で獲得し、グランデ・トリノと呼ばれた1940年代トリノFCの中心選手であったヴァレンティーノ・マッツォーラの息子であるサンドロ・マッツォーラが所属していたことから、この時期のインテル・ミラノはグランデ・インテルと呼ばれた。

また、フランス代表のアシスタントコーチ(1946-1948)、スペイン代表(1959-1962)とイタリア代表(1966-1968、フェッルッチオ・ヴァルカレッジとの2頭体制)の監督をクラブチームとの兼任で務めた。

獲得タイトル

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アトレティコ・マドリード

FCバルセロナ

インテル

ASローマ

出典

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  1. ^ "フロンターレを完封した京都の"カトナチオ"". ジェレミー・ウォーカーのA View From A Brit (2008年4月10日). 2012年8月19日閲覧。
チャンピオンズ
カップ
チャンピオンズ
リーグ
UCL - UEL - UECL - UCWC
FIFA - AFC - UEFA
 
クラブ監督歴
アスレティック・マドリード時代
アスレティック・アビアシオン時代
アトレティコ・アビアシオン時代
アトレティコ・マドリード時代
セビージャFC歴代監督
FCバルセロナ歴代監督
ASローマ歴代監督

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