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種田孝一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
種田 孝一
名前
カタカナ オイタ コウイチ
ラテン文字 OITA Koichi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1914年 4月9日 [1] [2]
大日本帝国の旗 大日本帝国東京府
没年月日 (1996年09月11日) 1996年 9月11日(82歳没)[3] 日本の旗 日本東京都 文京区
身長 175cm[4]
体重 67kg[4]
選手情報
ポジション MFDF
ユース
チーム
日本の旗 旧制水戸高校
193x-1938 日本の旗 東京帝国大学
代表歴
1936 日本の旗 日本 2 (0)
監督歴
チーム
1947-1956 日本の旗 住友金属工業
しかくテンプレート(しかくノート しかく解説)しかくサッカー選手pj

種田 孝一(おいた こういち、1914年 4月9日 - 1996年 9月11日)は、東京府出身の実業家。また、サッカー選手としてもハーフバック、フルバックのポジションでプレーした。叔父は種田虎雄

経歴

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東京府立五中(現・小石川高校)、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学に入学しア式蹴球部に所属。

在学中の1936年にベルリンオリンピックサッカー日本代表に選出された[4]

本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。本大会では右FBの堀江忠男、左FB竹内悌三とバックラインを形成し、スウェーデンを破った(詳細はベルリンの奇跡を参照)。

東京帝国大学経済学部を卒業後、1938年4月より満州住友金属工業(株)に入社[1] 。4月7日、イングランドイズリントン・コリンシャンズ戦に日本代表として出場した[5] が、それが最後の日本代表としての出場試合となった。

第二次世界大戦後の1946年10月より住友金属工業(現:日本製鉄)に入社した[1] 。なお、1947年に創設された住友金属工業蹴球団(現:鹿島アントラーズ)の監督を1956年まで務めた。

1966年5月より住友金属工業の取締役 [1] 、1968年11月より同社常務取締役[1] 、1972年11月より同社専務取締役[1] をそれぞれ歴任。1976年6月に同社取締役副社長に就任した[1]

住友金属工業の役員退任後は、1978年6月より住金物産(現:日鉄物産)の取締役会長[1] 、1982年2月よりダイキン工業の取締役会長[1] を務めた(1989年3月期を以て退任)。

1996年 9月11日東京都 文京区急性心不全により死去した[3]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1936)


日本代表 国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1936 2 0 4 0 6 0
1937 0 0 0 0 0 0
1938 0 0 1 0 1 0
通算 2 0 5 0 7 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1936年08月04日 ドイツの旗 ベルリン  スウェーデン しろまる3-2 鈴木重義 オリンピック
2. 1936年08月07日 ドイツの旗 ベルリン  イタリア くろまる0-8 オリンピック

参考文献

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  1. ^ a b c d e f g h i ダイキン工業株式会社 有価証券報告書(1988年3月期)、2014年8月11日閲覧
  2. ^ 『歴代日本代表パーフェクト名鑑 サッカーマガジン別冊夏季号』ベースボールマガジン社、2007年。
  3. ^ a b 「種田孝一氏死去」 朝日新聞、1996年9月13日、2014年7月9日閲覧
  4. ^ a b c 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年9月11日閲覧
  5. ^ 日本代表 試合別出場記録

外部リンク

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住友金属工業蹴球団
鹿島アントラーズ

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