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佐野理平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐野 理平
名前
カタカナ サノ リヘイ
ラテン文字 SANO Rihei
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1912年 9月21日
出身地 静岡県
没年月日 (1992年03月26日) 1992年 3月26日(79歳没)
選手情報
ポジション GK
ユース
日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 早稲田大学WMW
代表歴
1936 日本の旗 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
しかくテンプレート(しかくノート しかく解説)しかくサッカー選手pj

佐野 理平(さの りへい、1912年 9月21日 - 1992年 3月26日 [1] )は、静岡県出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK日本代表として、1936年ベルリンオリンピックに出場した。

経歴

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静岡中学(現静岡高校)卒業。ポジショニングの良さと、俊敏な動きが特徴のGKであったが、空中戦や接触プレーに難があった(当時の日本国内ではキーパーチャージを反則として取られなかった為、キーパーを故意に狙う事が常套手段であった)。その為、早稲田大学時代には身体能力に優れる不破整との併用、もしくは不破の方が出場機会を得ていた。

1936年のベルリンオリンピックの出場の為、欧州のクラブチームと練習試合を行った際に、本場欧州ではキーパーに対するファウルは厳しく取られ、審判から保護される事を知ると、本来の長所が発揮出来る様になった。

同年8月7日のベルリンオリンピック1回戦、スウェーデン代表戦では優勝候補相手に好セーブを連発、「ベルリンの奇跡」の立役者の一人となった。なお、日本代表では慶應義塾大学津田幸男らの台頭もあり出場は2試合に留まった。

1937年には早大ア式蹴球部の主将を務め、1938年に大学を卒業し[2] 、三井鉱山(現:日本コークス工業)に入社した[3] 。1939年11月に太平洋戦争のため召集された[3]

1956年5月にはメルボルン五輪のサッカー日本代表のコーチに就任した[4] 。その後は三井三池製作所の常務などを務め、1992年3月26日に死去した[2]

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1936)


日本代表 国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1936 2 0 4 0 6 0
通算 2 0 4 0 6 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1936年08月04日 ドイツの旗 ベルリン  スウェーデン しろまる3-2 鈴木重義 オリンピック
2. 1936年08月07日 ドイツの旗 ベルリン  イタリア くろまる0-8 オリンピック

家族

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出典

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  1. ^ "佐野 理平 - Webcat Plus". webcatplus.nii.ac.jp. 2023年6月1日閲覧。
  2. ^ a b 「whoplus」(日外アソシエーツ) , 2014年9月18日閲覧
  3. ^ a b 「蹴球の佐野君應召」 読売新聞、1939年11月6日、2016年5月3日閲覧
  4. ^ 「日本代表候補決る」 読売新聞、1956年5月7日、2016年5月3日閲覧
  5. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 153頁。
  6. ^ CANジャーナル346号 2017年3月

参考文献

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外部リンク

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