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林田藩

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林田藩(はやしだはん)は、江戸時代播磨国 揖東郡にあった。藩庁として林田(現・兵庫県 姫路市林田町聖岡)に林田陣屋(北緯34度54分21秒 東経134度34分48.5秒 / 北緯34.90583度 東経134.580139度 / 34.90583; 134.580139 )が置かれた。表高は1万石。

略史

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豊臣政権下で尼崎郡代700石であった建部光重の子・政長を藩祖とする。政長は池田輝政の養女(下間頼龍の娘)を母とする池田家一族であった。池田利隆忠継兄弟の幕下の大坂の陣で戦功を挙げ、元和元年(1615年)に伯父の池田重利とともに摂津川辺郡西成郡 尼崎藩1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)、宗主である姫路藩主池田家の転封により林田に移り、林田藩が成立した。

建部家外様大名でありながら、明治維新まで10代政世まで250年余りに亘り林田藩を治めた。また3名の藩主が大番頭となっている。中でも、3代・政宇伏見奉行になり、後に寺社奉行にもなっている。

7代・政賢寛政6年(1794年)藩校敬業館を開いた。9代政和は大番頭として京都、二条城守護に就き、藩校敬業館振興のため、藩校の講師に河野鉄兜を迎えた。この敬業館の講堂は文久3年(1863年)に焼失ののち復興。講堂は現存しており平成4年(1992年)姫路市指定文化財に指定されている。

藩主家は明治2年(1869年)の版籍奉還後に華族に列した。林田藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により林田県となり、その後姫路県飾磨県を経て兵庫県に編入された。その後藩主家は明治17年(1884年)の華族令子爵に叙された。

歴代藩主

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建部家

外様 1万石 (1617年 - 1871年)

  1. 政長
  2. 政明
  3. 政宇
  4. 政周
  5. 政民
  6. 長教
  7. 政賢
  8. 政醇
  9. 政和
  10. 政世

幕末の領地

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幕末の林田藩領分
郡名 村名 石高 M22市制町村制施行 現在
揖東郡 紀美村[1] 437.966705 大津村 姫路市 大津区
矢田辺村 690.187195 太田村 揖保郡 太子町
東南村 578.504028
中太田村[2] 1624.205811
東保出屋敷村 224.317993
東保村 591.226990
平方村[3] 70.679001 龍田村
柳村[3] 286.575012
野部村 291.645294 神岡村 たつの市(旧龍野市)神岡町
田中村 466.634308
寄井村 558.398193
沢田村 973.760071
入野村 618.599792
宿村[4] 473.514893
横落村[5] 1807.033569
筒井村 212.427002
奥村 118.490700
構村 1085.124878 林田村 姫路市林田町
六九谷村 902.320801
奥佐見村 638.442505
大提村 213.481995
松山村 653.634705
下野村 402.971008 新宮村 たつの市(旧揖保郡新宮町)
北村 291.467712 越部村
橋崎村[6] 678.061707

脚注

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  1. ^ 吉美村
  2. ^ 太田村
  3. ^ a b 佐用岡村
  4. ^ 東觜崎村に併合
  5. ^ 横内村
  6. ^ 觜崎村

関連項目

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参考文献

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先代
(播磨国) 行政区の変遷
1617年 - 1871年 (林田藩→林田県) 次代
姫路県
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方
東北地方
関東地方
北陸・甲信地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方
関連項目
藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。
明治期の変更: ★=新設、くろまる=廃止、しろまる=移転・改称、さんかく=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。

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