コンテンツにスキップ
Wikipedia

北川正恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月)
北川 正恭
きたがわ まさやす
生年月日 (1944年11月11日) 1944年 11月11日(79歳)
出生地 日本の旗 日本 三重県 鈴鹿市
出身校 早稲田大学商学部
現職 早稲田大学名誉教授
早稲田大学プロジェクト研究所顧問
所属政党 (自由民主党→)
(新党みらい→)
(新進党→)
無所属
称号 商学士
親族 父・北川正雄
公式サイト 北川正恭オフィシャルウェブサイト

三重県の旗 公選第14-15代 三重県知事
当選回数 2回
在任期間 1995年4月21日 - 2003年4月20日

選挙区 三重県第1区
当選回数 4回
在任期間 1983年12月19日 - 1995年 3月23日

選挙区 鈴鹿市選挙区
当選回数 3回
在任期間 1972年4月 - 1983年11月
テンプレートを表示

北川 正恭(きたがわ まさやす、1944年〈昭和19年〉11月11日 - )は、日本政治家政治学者

三重県知事(第4代、2期)、衆議院議員(4期)、三重県議会議員(3期)を歴任。早稲田大学大学院公共経営研究科 名誉教授、および早稲田大学マニフェスト研究所(プロジェクト研究所)顧問・前所長。富士通株式会社 社外取締役四日市大学客員教授。

来歴・人物

[編集 ]

1944年(昭和19年)11月11日、三重県 鈴鹿市に生まれた[1] 三重県立神戸高等学校早稲田大学商学部卒業[1] 学位商学士(早稲田大学)。大日本印刷に勤務した[1]

1972年(昭和47年)、補選で三重県議会議員に初当選し、連続3期務めた[1]

1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙自由民主党から出馬し、初当選した。当選同期に、田中直紀熊谷弘二階俊博野呂田芳成額賀福志郎衛藤征士郎田中秀征尾身幸次町村信孝伊吹文明自見庄三郎中川昭一大島理森野呂昭彦鈴木宗男甘利明などがいる。福田派→安倍派→三塚派に所属した。

自民党では、文部政務次官、党文教部会会長代理、党労働部会副部会長、衆議院政治改革調査特別委員会理事、党副幹事長などを歴任した[1]

1994年(平成6年)の細川内閣 総辞職を機に、同年4月15日、鹿野道彦らと共に自民党を離党して、新党みらいを結党。党幹事長に就任した[1] 。その後、他の政党会派と合併した新進党に加わった。

衆議院議員任期中の1995年(平成7年)、同じ三重県出身の岡田克也に推され、同年4月9日執行の三重県知事選挙に立候補した(告示日の同年3月23日付で公職選挙法の規定により衆議院議員を退職(自動失職))。選挙では自民党公認候補を破って初当選を果たし、2期務めた。当初は新進党が支援母体であり、2期目は、自・社・公・民の4党による相乗りのオール与党体制であったが、公式には政党・団体の推薦・支持を得なかったため「無党派知事」といわれた。

2003年(平成15年)に長期政権は癒着が生じるとして不出馬を表明した。国政復帰も囁かれたが、政治の根本を変えるには若い政治家を育てる必要性があると説き、早稲田大学大学院公共経営研究科教授に就任した。2015年(平成27年)退任。

選挙における政党の政権公約としてのマニフェストを提唱し、日本に広めた。21世紀臨調共同代表。せんたく発起人代表。

テレビではTBS系『ブロードキャスター』(レギュラーとしては2004年秋から2008年秋まで)、『みのもんたの朝ズバッ! → 朝ズバッ!』(2010年春から2014年3月まで)にコメンテーターとして出演していた。

家族

[編集 ]

家族は妻と2男。次男は、サッカーJ2ファジアーノ岡山代表取締役会長[2] 北川真也

父は北川正雄(元三重県議会議長)[3] 。伯父(母の兄)に久保田藤麿(元衆議院議員、元参議院議員)がいる[4]

知事在職中の業績

[編集 ]

1995年(平成7年)に三重県知事選挙で当選した後、岩手県増田寛也宮城県浅野史郎高知県橋本大二郎鳥取県片山善博らとともに「改革派知事」として注目された。その改革内容については賛否両論ある。

おもな業績を以下に記す。

  • 県庁の組織を再編し、片仮名表記の部署を多く設置した。(これについては、県民から分かりにくいとの苦情もあり、後任の野呂昭彦知事によってほとんどが元の名前に戻された)
  • 1997年(平成9年)に「三重のくにづくり宣言」を発表した。
  • 中部電力南島町紀勢町の境界に建設を計画していた芦浜原子力発電所を、住民の賛同が得られているとはいえないとして、2000年(平成12年)に白紙撤回した。これを受けて中部電力は計画を断念した。
  • 三重県下で人口10万人当たりの交通死亡事故発生率が全国ワースト1位となったことを受け、2000年11月13日、「交通死亡事故多発非常事態宣言」を発表した。
  • 2001年(平成13年)に産業廃棄物税を導入した。これにより、事業者に対して産業廃棄物1トンあたり1000円の税金が課されることとなった。
  • リサイクル製品の認定制度を充実させた。しかし、石原産業によるフェロシルト問題の誘引ともなった。
  • トップセールスによりシャープの工場建設を積極的に誘致した。亀山市とあわせて135億円の補助金(多額の税金)を一社に提供し、2002年(平成14年)にシャープは亀山市に液晶テレビなどを製造する工場を建設すると発表した(参考、クリスタルバレー構想)。しかし2010年(平成22年)に稼動した堺工場完成後は、液晶テレビの主力工場は亀山工場より堺工場に移る。また、中国での液晶製造を発表し、亀山工場の施設の一部を移転すると示唆している。2009年(平成21年)9月に売却対象のうち補助金で購入した設備に関し、三重県は条例に基づき補助金の一部返還を求める方針を決定した。
  • 廃棄物固形燃料によるごみの有効利用を推進した。しかし2003年(平成15年)に多度町の発電プラントで火災事故が起こり、作業員や消防士7人が死傷、サイロは解体に追い込まれた。県民の間では導入を急ぎすぎたとして非難の声も上がっている。初期工事費650億円を投じ、その後の追加工事費を含め1000億円以上費やした廃棄物固形燃料プラントRDFプラントは2016年廃止が三重県議会で発表されている。建設工事をおこない、メインテナンスを担当した富士電機は施工・メンテナンス実績が皆無であったことも事故の原因であった。北川の地元鈴鹿市に工場があり、天の声が下った怪しさが伊勢新聞に報道されている。

略歴

[編集 ]
  • 1972年(昭和47年):三重県議会議員選挙に鈴鹿市選挙区から立候補し当選(連続3期)。
  • 1983年(昭和58年):衆議院旧三重1区から衆議院選挙立候補し当選(連続4期)。
  • 1990年(平成2年):文部政務次官に就任。
  • 1995年(平成7年):三重県知事選挙に立候補し当選(連続2期)。
  • 2003年(平成15年):三重県知事を退任。早稲田大学大学院公共経営研究科 教授に就任。
  • 2009年(平成21年):富士通社外取締役に就任。
  • 2015年(平成27年):早稲田大学大学院公共経営研究科教授を退任。

文献

[編集 ]

著書

[編集 ]

共著

[編集 ]

関連文献

[編集 ]

脚注

[編集 ]
  1. ^ a b c d e f 国会ニュース社 1994, p. 43.
  2. ^ ファジアーノ岡山 新社長に森井副社長が就任へ」『朝日新聞デジタル』2024年2月2日。2024年6月15日閲覧。
  3. ^ 『大政変 65人の主役たち』木下厚・編著(フットワーク出版) より
  4. ^ 早稲田大学大学院公共経営研究科教授 北川正恭氏 第1回(取材協力:日刊建設工業新聞)1/2 - 建設WALKER [リンク切れ ]より

参考文献

[編集 ]
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2024年6月)

関連項目

[編集 ]

外部リンク

[編集 ]
公職
先代
田川亮三
三重県の旗 三重県知事
公選第14 - 15代:1995年 - 2003年
次代
野呂昭彦
定数5
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
<< 歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後・1991-2010) >>
第8回(1991年)

...じゃあ〜りませんか チャーリー浜

第9回(1992年)

「うれしいような、かなしいような」「はだかのおつきあい」 きんさんぎんさん

第10回(1993年)
第11回(1994年)

すったもんだがありました 宮沢りえ / イチロー(効果) イチロー(オリックス・ブルーウェーブ) / 同情するならカネをくれ 安達祐実

第12回(1995年)

無党派 青島幸男(東京都知事) / NOMO 野茂英雄(ロサンゼルス・ドジャース) / がんばろうKOBE 仰木彬(オリックス・ブルーウェーブ監督)

第13回(1996年)

自分で自分をほめたい 有森裕子(マラソン選手) / 友愛 / 排除の論理 鳩山由紀夫(民主党代表) / メークドラマ 長嶋茂雄(読売ジャイアンツ監督)

第14回(1997年)
第15回(1998年)

ハマの大魔神 佐々木主浩(横浜ベイスターズ) / だっちゅーの パイレーツ(お笑い芸人)

第16回(1999年)
第17回(2000年)

おっはー 慎吾ママ / IT革命 木下斉(商店街ネットワーク社長・早稲田大学高等学院三年)

第18回(2001年)

「小泉語録」(米百俵・聖域なき構造改革・恐れず怯まず捉われず・骨太の方針・ワイドショー内閣・改革の「痛み」) 小泉純一郎(内閣総理大臣)

第19回(2002年)

タマちゃん 佐々木裕司(川崎市民)、黒住祐子(フジテレビレポーター) / W杯(中津江村) 坂本休(中津江村・村長)

第20回(2003年)
第21回(2004年)

チョー気持ちいい 北島康介(競泳選手)

第22回(2005年)

小泉劇場 武部勤(自由民主党幹事長)ほか / 想定内(外) 堀江貴文(ライブドア社長)

第23回(2006年)

イナバウアー 荒川静香(プロスケーター) / 品格 藤原正彦(数学者)

第24回(2007年)

(宮崎を)どげんかせんといかん 東国原英夫(宮崎県知事) / ハニカミ王子 石川遼(アマチュアゴルフ選手)

第25回(2008年)
第26回(2009年)

政権交代 鳩山由紀夫(内閣総理大臣)

第27回(2010年)

ゲゲゲの -  武良布枝(『ゲゲゲの女房』作者)

(注記)受賞者の役職は当時のもの。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /