冷泉為広
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 宝徳2年(1450年) |
死没 | 大永6年7月23日(1526年 8月30日) |
改名 | 為広→宗清(号) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 足利義澄 |
氏族 | 上冷泉家 |
父母 | 父:冷泉為富 |
妻 | 丹波重長の娘 |
子 | 為和 、応猷、尊俊、孝我、将軍家女房 |
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冷泉 為広(れいぜい ためひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・歌人。権大納言・冷泉為富の子。官位は正二位・権大納言。上冷泉家6代当主。
経歴
[編集 ]文明9年(1477年)、従三位に叙位。文亀元年(1501年)に正二位に昇り、永正3年(1506年)に権大納言兼民部卿に至る。11代将軍・足利義澄の室町幕府・相伴衆を務め、永正5年(1508年)に義澄が将軍職を追われると、それに従って出家して宗清と号した。
能登国 守護の能登畠山氏と最も親しく、能登に長らく在国し、同国で薨去したともいわれる。
歌人としては、『為広卿集』『為広詠草』などの歌集が伝わる。
文献における記載
[編集 ]『耳嚢』巻之一「為広塚の事」に以下の記述がある。
- 加賀・能登の境に、冷泉為広の歌塚といへる物有し由。左に記す。
- 季世尓残牟
- 為広塚加能
- 跡動無建碑
- 如斯にて歌に詠じ侍れば、
- すゑの代に残さんがため広塚のあと動ぎなくたつる石ふみ
系譜
[編集 ]注記のないものは「御子左系図」『続群書類従』巻第148所収による。