細川治年
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細川治年像(永青文庫蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦8年4月25日(1758年 5月31日) |
死没 | 天明7年9月16日(1787年 10月26日) |
改名 | 胤次(幼名)、賢年(初名)、治年 |
諡号 | 東岸、錦城 |
戒名 | 大恂院禅月宗関 |
墓所 | 熊本県 熊本市横手の妙解寺 |
官位 | 従四位下、侍従、中務大輔、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 肥後 熊本藩主 |
氏族 | 肥後細川家 |
父母 | 父:細川重賢、母:屋越(松田氏) |
兄弟 | 治年、親姫、豪次 |
妻 |
埴姫(細川興文の娘) 登恵崎、千木 |
子 |
長岡年和、寿姫、就姫ら4男2女 斉茲 |
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細川 治年(ほそかわ はるとし)は、江戸時代中期の大名。肥後国 熊本藩7代藩主。熊本藩細川家8代。
生涯
宝暦8年(1758年)4月25日、6代藩主・細川重賢の次男として誕生した。幼名は胤次、のち元服して父・重賢より1字を与えられて初名の賢年[1] (かたとし)を名乗る。天明5年(1785年)、父の死去により家督を継ぎ、10代将軍・徳川家治より偏諱を賜って治年と改名。父の「宝暦の改革」を引き継いだ藩政を行なったが、翌天明6年(1786年)から天災が起こって、米価高騰により藩内で打ちこわしが起こるなどの苦境に立たされ、そのような中で、天明7年(1787年)9月16日に死去した。享年30。
長岡年和をはじめ、男子が皆早世していたために嗣子がなく、正室・謡台院(埴姫)の同母弟で、支藩の宇土藩主の細川立礼(改め斉茲)が養子に入り跡を継いだ。これにより、細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった。
系譜
子女は3男2女
- 父:細川重賢(1721年 - 1785年)
- 母:屋越 - 松田氏
- 正室:謡台院(1755年 - 1803年)、埴姫 - 細川興文の娘
- (子を身ごもっていたが流産)
- 側室:登恵崎 - 織田氏
- 側室:千木、妙雲院 - 浅尾氏
- 男子:浄丸(1785年)- 夭折。
- 女子:就姫(1787年 - 1847年) - 美子、久我通明正室
- 養子