煬愍蕭皇后
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蕭皇后 | |
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隋の皇后 | |
『説唐演義』蕭后 | |
在位 |
大業元年1月1日 - 大業14年3月11日 (605年 1月25日 - 618年 4月11日) |
別称 | 煬愍皇后 |
出生 |
天保6年(567年)2月 江陵 |
死去 |
貞観21年3月8日 (647年 4月17日) 長安 |
配偶者 | 煬帝 |
子女 |
楊昭 楊暕 |
氏族 | 蕭氏(後梁 皇族) |
父親 | 明帝蕭巋 |
母親 | 張氏 |
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蕭皇后(しょうこうごう)は、隋の煬帝の皇后。後梁の明帝蕭巋の娘。諡は愍で、夫の諡と合わせて煬愍皇后(ようびんこうごう)と呼ばれる。
経歴
江南の風俗では、2月に生まれた子は取り上げないと言われていて、蕭氏はその2月に生まれたために、叔父の蕭岌に養われた。まもなく蕭岌夫妻がともに亡くなったため、母方の叔父の張軻の家で養われた。張軻の家は寒貧であったため、蕭氏は自ら労苦を重ねた。隋の文帝楊堅は次男の晋王楊広(のちの煬帝)のために後梁から妃を選ぼうとしたが、占ったところ後梁の公主たちはみな不吉と出た。そこで蕭巋が蕭氏を張軻のもとから迎えて占わせると、ようやく吉と出たので、蕭氏を晋王妃としてとつがせた。2人の間には元徳太子楊昭と斉王楊暕が生まれた。
蕭氏は学問を好み、文章を作り、占いに詳しく、夫の楊広(煬帝)と似ている部分が少なくなかった。煬帝が即位すると、皇后に立てられた。煬帝が遊幸におもむくたびに、皇后は必ずつき従った。煬帝の失政がひどくなると、皇后は「述志賦」を作って諫めた。
大業14年(618年)、宇文化及が煬帝を殺害すると、皇后は宇文化及の軍に従って柳城に入った。宇文化及が敗死すると、皇后は孫の楊政道(楊暕の遺腹の子)とともに竇建徳の手に落ちた。突厥の処羅可汗が皇后を迎えるべく洺州に使者を送ってくると、竇建徳は突厥に送りとどけた。貞観4年(630年)、突厥が唐の北伐軍に敗れると、皇后は長安に入った。
貞観21年(647年)3月、死去。享年は81。太宗によって煬帝と共に合葬され、愍皇后と諡された。