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安藤勝己

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安藤勝己
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 日本の旗 日本愛知県 一宮市
生年月日 (1960年03月28日) 1960年 3月28日(64歳)
身長 161cm
体重 52kg
血液型 A型
騎手情報
所属団体 栗東トレーニングセンター
所属厩舎 フリー
初免許年 1976年(笠松)
免許区分 平地競走
経歴
所属 1976年-2003年 笠松
2003年- フリー(栗東)
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安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年 3月28日 - )は日本中央競馬会(JRA)の騎手である。栗東トレーニングセンター所属(フリー)。愛知県 一宮市出身。血液型A型。笠松競馬場在籍時の勝負服の服色は胴青、白山形一本輪、袖黄。また、兄の安藤光彰も騎手(NAR笠松→JRA)、甥はNAR大井競馬場所属の安藤洋一である。

アンカツ」のニックネームで親しまれている。出生時から幼少時までの姓は「北浦」であったが中学2年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが復縁時には逆に父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤勝己」である[1] 。なお、兄の光彰は「アンミツ」、甥の洋一は「アンヨウ」の愛称で呼ばれている。

なお本稿では他の安藤姓の競馬関係者と区別するため、特に断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。

来歴

笠松時代

兄・光彰が騎手である影響から、勝己は1976年地方競馬笠松競馬場で初騎乗。同年12月のジュニアグランプリをシプリアパールで優勝し初重賞を飾る。翌1977年は78勝を挙げリーディング2位となり、さらに1978年に116勝を挙げリーディングジョッキーとなる。以降リーディングジョッキーに君臨し続け、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日は無い」と言われるほどであった。1985年に「名古屋の天才」と謳われた坂本敏美が競走中の不慮の事故で引退を余儀なくされた後は、2003年中央競馬に移籍するまで笠松競馬場のみならず「東海のエース」と称される活躍を見せた(JRA移籍時の通算勝利数は3299)。

笠松時代のお手馬

オグリキャップ

笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として最も有名であるのがオグリキャップである。勝己は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ転厩するが勝己は中央競馬の騎手免許が無いため騎乗することはできず中央移籍後は河内洋南井克巳岡部幸雄武豊岡潤一郎増沢末夫らJRA所属の騎手が騎乗した。

それでも笠松で行われたオグリキャップの引退式では勝己がオグリキャップに跨りスタンドを2周した(オグリキャップは中央・地方時代を合わせて32戦を戦ったが勝己が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である)。

オグリローマン

勝己はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。後にオグリローマンは中央競馬へ移籍し、1994年桜花賞を武豊を背に制した。

現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することは珍しくない。しかし1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマージャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や地方競馬騎手招待競走のみに限られており、勝己が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのはやむをえないことであった。

中央競馬への参戦

安藤勝己がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で引退後に種牡馬となったヤマニンスキーによるものである。

1995年は「交流元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく開放された年であった。同年、笠松競馬所属で10戦10勝のライデンリーダーとのコンビで中央競馬の重賞・4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出走した。2番人気ながらレースレコードで勝利を収めた。

続く桜花賞では、後の優駿牝馬(オークス)優勝馬・ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージサンデーサイレンス産駒2頭を抑え、ライデンリーダーは単勝1.7倍の1番人気に支持された。しかし3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れた。続くオークスでも1番人気に支持されるが13着に大敗。秋は1戦した後にローズステークスに挑んで3着に入り、当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。結局ライデンリーダーは4歳牝馬特別以後に中央で勝ち星を挙げることはなかったが、「交流元年」に笠松から現われたライデンリーダーとの活躍は中央競馬のファンに大きな衝撃を与える結果となった。

中央競馬への移籍

JRA騎手試験を受験

上記のように中央競馬でも重賞を8勝、通算100勝を達成するなど活躍していた勝己は、2001年に中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験するが不合格。これはJRA競馬学校卒業者と同じく学科試験を課されたからであると言われているが、地方とはいえこれだけの実績を残した騎手を学科試験で不合格にしたのはナンセンスであると競馬ファンや競馬記者からの批判を呼ぶことになった。この事態を受けて、JRAは翌年から、「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除する試験要項改定(いわゆる「アンカツ・ルール」)を行い、勝己は2002年に再びJRA騎手試験を受験し合格となった。

中央競馬移籍

2003年

騎手試験合格後中央競馬へ移籍し2003年 3月1日阪神競馬で中央競馬所属騎手としてデビュー。同日の第6競走で移籍後初勝利を挙げる。その後3月30日には高松宮記念(中京競馬場)をビリーヴで優勝し中央騎手デビューから30日というJRA新記録で、また「お膝元」でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞ザッツザプレンティで勝利しクラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、リーディング3位となる。

2004年

2004年はキングカメハメハ東京優駿(日本ダービー)を制しダービージョッキーとなるなどGI競走を7勝(中央GI4勝)。

2005年

2005年はスズカマンボ天皇賞(春)初優勝を飾り、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。

2006年

2006年はキストゥヘヴン桜花賞ダイワメジャー天皇賞(秋)マイルチャンピオンシップを制覇。

2007年

2007年はダイワスカーレットで桜花賞(連覇)、秋華賞の牝馬二冠を達成。また同馬でエリザベス女王杯も制し、京都競馬場で行われるGI・JpnIの完全制覇を達成した。さらにサンライズバッカスフェブラリーステークスを、ダイワメジャーで安田記念・マイルチャンピオンシップ(連覇)を制し、中央GI・JpnI6勝を挙げる(2007年11月18日現在GIおよびJpnI計16勝)。これは2005年武豊のと並ぶJRA記録である。

この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(.238)。なお連対率(.410)&複勝率(.524) 共にこの年のトップであった。11月17日には京都競馬場でJRAタイ記録で史上3人目となる騎乗機会6連勝を達成。またワールドスーパージョッキーズシリーズに出場し、世界中の名騎手たちが参加する中15人中3位と健闘した。

2008年

2008年は阪神ジュベナイルフィリーズブエナビスタで優勝。また有馬記念ダイワスカーレットで優勝し、有馬記念初制覇と共に中山の芝重賞を初制覇。

2009年

2009年は桜花賞をブエナビスタで優勝し同レース3勝目。また優駿牝馬(オークス)をブエナビスタで初制覇し、これで八大競走の中で制していない競走は皐月賞のみとなった。

2010年

2010年1月30日、京都の第3競走でトウカイレジーナに騎乗し中央1000勝を達成。地方と中央両方で1000勝を達成した騎手は初となる偉業。

人物像

勝己は自分の騎手への価値観に関し、「笠松競馬場のリーディングジョッキーであり続ける中でリーディングジョッキーに価値を感じなくなり、さらに目指すべき目標がなくなったことで騎手という職業自体に魅力を感じなくなりしばしば騎乗をサボタージュし、南関東への移籍や調教師への転職を考えた時期がある。しかし地方競馬および中央競馬に指定交流競走が創設され、フェートノーザントミシノポルンガに騎乗してそれらの競走に出走する中で競馬に面白さを感じるようになった」と語っている。

2003年の中央移籍後、6年連続でGI勝利ならびに年間100勝以上を達成しており、また移籍後7年で皐月賞をのぞく旧八大競走をすべて制覇している。2008年ころからはレースに集中するためなどの理由で騎乗数を抑えているが、連対率、複勝圏率は極めて優秀である。騎乗依頼に関しては東西問わずに受けるようにしており、GI請負人として厚い信頼を得ている。競馬場別では京都競馬場で行われるGI・JpnIを完全制覇しているが、他方で中山競馬場との相性が悪く、2008年の有馬記念を制覇するまではGI級競走を制覇していない上に、その他の重賞もマーチステークスの1勝のみで、芝コースの重賞に至っては上記の有馬記念まで一度も勝てなかった。他方で東京競馬場とは相性が良く、GI級勝利の半数近くを占めている。

中央競馬のGI級競走開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ笠松時代同様に「安藤勝」と変更したというエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月からは光彰の中央移籍に伴い、全紙「安藤勝」になっている。

一方で天然キャラでもあり、『武豊TV!II』(フジテレビワンツーネクスト)での武豊の発言によると、自身が参加するレースの距離を把握しておらず本馬場入場の前に「これ、何メートルだっけ」と聞かれることがたまにあり、それでもレースは一着になることがあるとしている。これには本人曰く「レース前に競馬新聞の類は一切読まない」ことも影響している[2]

年齢による代謝低下の影響もあり、最近は毎週末レースになると「約5kgほど」の減量を必要とする(通常は「毎週水曜日が体重のピークで、そこから徐々に減らしていく」という)。ただ本人曰く「サウナに入るとすぐに汗をかく」体質で、サウナと水風呂を頻繁に往復することですぐに体重が落ちるため、減量そのものは周囲が思うほど大変ではないとのこと[2]

主な勝ち鞍

GI級

(斜字は統一GI級を指す)

これらは全て中央競馬移籍後であるが、笠松競馬時代にも1989年帝王賞1992年ダービーグランプリ(当時は格付け無し)などを勝利している。

重賞

(注記)GIおよびJpnIは上記参照。馬名の後の*印はJpnIIまたはJpnIIIを指す。

中央競馬
ダートグレード競走
笠松競馬

主な表彰

2003年〜2009年
2003年
2007年、2009年

テレビ出演

関連項目

脚注

  1. ^ 安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照
  2. ^ a b 『武豊TV!II』第11回

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