コンテンツにスキップ
Wikipedia

裴秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Capellanor (会話 | 投稿記録) による 2023年5月24日 (水) 23:00 (個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎脚注: 三国志立伝人物を追加)であり、現在の版 とは大きく異なる場合があります。

Capellanor (会話 | 投稿記録)による2023年5月24日 (水) 23:00時点の版 (→‎脚注: 三国志立伝人物を追加)

裴 秀(はい しゅう、黄初5年(224年) - 泰始7年(271年)3月)は、中国 三国時代から西晋政治家地理学者・西晋に仕えた。季彦(きげん)。本貫河東郡 聞喜県。父は裴潜。子は裴濬裴頠。弟は裴耽。妻は郭配(郭淮の弟)の娘[1]

生涯

幼くして学問を好み、8歳で文章を綴り、行いには気品と節義があった。生母は身分が低く、正室の宣氏に軽んじられ、来客時には給仕をさせられていた。彼女が気丈な態度でこれに従ったことで宣氏は給仕を止めさせ、人々は裴秀が裴氏の後継と認識するようになった。

官歴は毌丘倹の推挙により、大将軍 曹爽の属官()から始まる。正始5年(244年)に父が亡くなると爵位を継いだが、財産は兄弟に譲った[2] 黄門侍郎の官に欠員が出ると、何晏によって賈充らと共に任用された[3]

正始10年(249年)2月に曹爽が処刑されると免職となるが、のちに廷尉正として復職。司馬昭の属官(司馬)になると軍政について意見し、その多くを採用された。散騎常侍へ転任する頃には魏帝曹髦に敬愛され、討論会に参加し、儒林丈人と称された。

甘露2年(257年)6月、諸葛誕の反乱を討伐する親征に同行。行台(臨時の尚書台)の運営に携わり、謀略に参与した。乱の平定後は尚書・魯陽郷侯に任じられ、1000戸を増邑された。

景元元年(260年)6月、魏帝曹奐が即位。新帝擁立に参与した功によって尚書僕射に遷り、爵位は県侯に進み、700戸を増邑された。

兄の司馬師に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の司馬攸を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。しかし裴秀らは嫡子の司馬炎を立てるよう強く勧め、咸熙元年(264年)5月、司馬炎が晋王の世子となった[4] 。これに先立ち、世子になれないことを恐れた司馬炎は裴秀に対し、「人には(高貴となる)相というものがあるのだろうか?」と尋ねたという。

同年、諸制度が改革され、荀顗が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀は官制を改めた。五等爵復活の建議にも功があり、済川侯[5] に封じられた。

咸熙2年(265年)9月、司馬昭が没し司馬炎が晋王の位を継ぐと、裴秀は尚書令光禄大夫となる[6] 。同年12月、魏から西晋への禅譲の儀において要となる役割を担い、その差配は礼式に違うことはなかった。鉅鹿公に封じられ、3000戸を領した。泰始4年(268年)正月には司空に昇進した。

泰始7年(271年)3月[6] 、48歳で死去。元公と諡された。死因は「寒食散を服用した際、熱燗ではなく誤って冷酒を飲んだため」とされる。同時代の皇甫謐が伝える記述によると、薬による不測の発作が生じ、何日も体温の高低が繰り返され、呼吸困難に加えて視線も定まらない状態が続いた。左右の者は発作時の解毒法に従い、大量の冷水を飲ませ、さらに冷水浴を施したが回復せず、かえって体温を奪われて水中で絶命したという。

尚書が政治を統べるのは旧例に反し、その役割は九卿が担うべきと考えていたが、上奏を前に死去した。臨終に先立って記したの討伐を訴える草稿は、没後に司馬炎まで届けられた。それを読んだ司馬炎は、病床にあっても国事を憂いていた裴秀の忠節を称えた。咸寧年間初め、石苞らと並び王公として、晋王朝の廟庭に祀られた。

長男の裴濬が後を継ぎ、散騎常侍となったが、早逝した。裴濬の子は後継に相応しくないとされ、裴秀の次子裴頠がその後を継いだ。

人物

朝儀を創始し、広く刑罰や政治について意見を述べ、その多くは採用されて故事となった。儒学に通じ、易経楽経についての論文を著した[2] 。土地を管轄する地官としても大きな功を挙げ、当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』『地域方丈図』などを作った。考案した製図法『製図六体』は、製図の際の縮尺・距離・方位などの基本方針を定めたもので、中国の地理学史上に多大な貢献をもたらした。

司馬炎からは強い信頼と寵愛を受けた。裴秀は官有の稲田の横領を指示したとして、司隷校尉の李憙から弾劾を受けたことがあったが、司馬炎はこれを庇い罪には問わなかった。

発明家の馬鈞と発石車の改良を巡って議論し、論破するとそれを吹聴したが、傅玄から「馬氏が得意とするのは実際の器用さであって言葉ではない」と非難された[7] 。また、呉の使者として張儼が来訪すると賈充らと共に、彼が知らないことを持ち出して言い負かそうとしたが、敵わなかった[8]

出典

脚注

  1. ^ 陳寿三国志』魏書 郭淮伝注『晋諸公賛』
  2. ^ a b 『三国志』魏書 裴潜伝及び注に引く『文章叙録』
  3. ^ 『三国志』魏書 鍾会伝注
  4. ^ 『晋書』太祖文帝(司馬昭)紀。
  5. ^ 裴潜伝注『文章叙録』では広川侯とする。
  6. ^ a b 『晋書』武帝(司馬炎)紀
  7. ^ 『三国志』魏書 杜夔伝注
  8. ^ 『三国志』呉書 孫晧伝注『呉録』
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝

(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /