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|退任日3 = [[1916年]][[10月9日]]
|退任日3 = [[1916年]][[10月9日]]
'''東海 散士'''(とうかい さんし、[[1853年]][[1月11日]](削除) ( (削除ここまで)[[嘉永]]5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]](削除) ) (削除ここまで) - [[1922年]](削除) ( (削除ここまで)[[大正]]11年)[[9月25日]](削除) ) (削除ここまで)は、旧[[会津藩]]臣([[白虎隊]]士)で、[[明治]]から大正にかけての[[小説家]]・[[政治家]](削除) 。本名は'''柴 四朗'''(しば しろう) (削除ここまで)。財務[[学士]]。[[陸軍大将 (日本)|陸軍大将]][[柴五郎]]は実弟。
'''東海 散士'''(とうかい さんし(追記) 、本名:'''柴 四朗'''〈しば しろう〉 (追記ここまで)、[[1853年]][[1月11日]](追記) 〈 (追記ここまで)[[嘉永]]5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]](追記) 〉 (追記ここまで) - [[1922年]](追記) 〈 (追記ここまで)[[大正]]11年)[[9月25日]](追記) 〉 (追記ここまで)は、旧[[会津藩]]臣([[白虎隊]]士)で、[[明治]]から大正にかけての[[小説家(追記) ]]・[[記者|新聞記者 (追記ここまで)]]・[[政治家]]。財務[[学士]]。[[陸軍大将 (日本)|陸軍大将]][[柴五郎]]は実弟(追記) 。代表作は[[政治小説]]『[[佳人之奇遇]]』 (追記ここまで)。
[[会津藩]]士で御[[足軽大将|物頭]]格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、[[上総国]][[富津(削除) 市 (削除ここまで)|富津]]の会津藩陣屋([[弘化]]4年から嘉永7年まで会津藩が富津[[台場]]の警備を担当<ref>岡山大学池田家文庫・絵図公開データベースシステム「[https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/ja/2745 上総国富津台場之絵図 会津藩請持]」説明参照。</ref>)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。<ref name=":1">上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書」</ref>
[[会津藩]]士で御[[足軽大将|物頭]]格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、[[上総国(追記) ]][[君津郡 (追記ここまで)]][[富津(追記) 村 (千葉県) (追記ここまで)|富津(追記) 村 (追記ここまで)]]の会津藩陣屋([[弘化]]4年から嘉永7年まで会津藩が富津[[台場]]の警備を担当<ref>岡山大学池田家文庫・絵図公開データベースシステム「[https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/ja/2745 上総国富津台場之絵図 会津藩請持]」説明参照。</ref>)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。<ref name=":1">上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書」</ref>
=== 会津戦争 ===
=== 会津戦争 ===
藩士子弟の通例に従い[[数え年|数え]]10歳より[[藩校]][[日新館]]で[[小笠原午橋]]・[[南摩綱紀]]に(削除) 随 (削除ここまで)い[[漢学]]を修め<ref name=":2">国立公文書館所蔵・柴四朗履歴書より</ref>、大学部を経たのち上洛。[[慶応]]4年初めの[[鳥羽・伏見の戦い]]には父・兄とともに出陣、5ヶ月後の[[会津戦争]]では[[白虎隊]]に配属されたが、途中で病のため籠城組となり生き残った(削除) <ref name=":1" /> (削除ここまで)。ただし、柴家の女性5名(祖母・母・兄嫁・姉妹ら)は、足手纏いとなることを避けるために私邸で自刃に及んだ<ref name=":1" />。なお、[[会津城籠城戦|籠城戦]]をくぐり抜けた同年代の後輩には、[[山川健次郎]]・[[高嶺秀夫]]・[[井深梶之助]]・[[高木盛之輔]]・[[赤羽四郎]]・[[山際永吾]]らがいた。
藩士子弟の通例に従い[[数え年|数え]]10歳より[[藩校]][[日新館]]で[[小笠原午橋]]・[[南摩綱紀]]に(追記) 就 (追記ここまで)い(追記) て (追記ここまで)[[漢学]]を修め<ref name=":2">国立公文書館所蔵・柴四朗履歴書より</ref>、大学部を経たのち上洛。[[慶応]]4年初めの[[鳥羽・伏見の戦い]]には父・兄とともに出陣、5ヶ月後の[[会津戦争]]では[[白虎隊]]に配属されたが、途中で病のため籠城組となり生き残った。ただし、柴家の女性5名(祖母・母・兄嫁・姉妹ら)は、足手纏いとなることを避けるために私邸で自刃に及んだ<ref name=":1" />。なお、[[会津城籠城戦|籠城戦]]をくぐり抜けた同年代の後輩には、[[山川健次郎]]・[[高嶺秀夫]]・[[井深梶之助]]・[[高木盛之輔]]・[[赤羽四郎]]・[[山際永吾]]らがいた。
=== 英学修業と西南戦争従軍 ===
=== 英学修業と西南戦争従軍 ===
降伏開城後は諸士とともに[[猪苗代町|猪苗代]]謹慎所、次いで東京の[[護国寺]]に移送された。明治3年([[1870年]])の赦免後は移封先の[[斗南藩]](旧[[盛岡藩]]領内に設置)へ移住し、藩設置の英学校に通ったが、まもなく上京。[[沼間守一]]の私塾や[[山東直砥]]の[[北門義塾|北門社]]などで[[英学]]を学び、横浜在住英国人の[[書生]]を経て、斗南へ戻り[[広沢安任]]経営の牧場で英国人技師の通訳兼案内役として働き、実家では開墾に従事。その後、函館・弘前([[東奥義塾高等学校|東奥義塾]])・会津へと転々とした末、再び上京。長兄太一郎の周旋で[[唐通事]]出身の[[横浜税関]]長[[柳谷謙太郎]](1847–1923)の書生となり、[[新暦]][[1875年]](明治8年)より3年間学資援助をうけて学業に専念するとともに、[[東京日日新聞]]などへの寄稿で言論活動にも手を染めた。<ref name=":1" /><ref>高井多佳子「柴四朗の言論活動」</ref>
降伏開城後は諸士とともに[[猪苗代町|猪苗代]]謹慎所、次いで東京の[[護国寺]]に移送された。明治3年([[1870年]])の赦免後は移封先の[[斗南藩]](旧[[盛岡藩]]領内に設置)へ移住し、藩設置の英学校に通ったが、まもなく上京。[[沼間守一]]の私塾や[[山東直砥]]の[[北門義塾|北門社]]などで[[英学]]を学び、横浜在住英国人の[[書生]]を経て、斗南へ戻り[[広沢安任]]経営の牧場で英国人技師の通訳兼案内役として働き、実家では開墾に従事。その後、函館・弘前([[東奥義塾高等学校|東奥義塾]])・会津へと転々とした末、再び上京。長兄太一郎の周旋で[[唐通事]]出身の[[横浜税関]]長[[柳谷謙太郎]](1847–1923)(追記) <ref>柳谷謙太郎([[弘化]]4年生)は[[長崎奉行]]の[[唐通事]]柳谷忠四郞の養子となり家督を相続。維新後に[[長崎府]][[通弁]]役となり、1870年に神奈川県港規則取調御用掛、神奈川県准三等出仕を経て、71年より外務省出仕。運上所規則取調のため同年4月から12月までアメリカ出張。72年より[[大蔵省]]租税寮出仕、75年横浜税関長、76年末から82年末までサンフランシスコ駐在領事、83年外務少書記官。84年より農商務少書記官・同権大書記官、86年農商務大臣秘書官、88年パリ万国博覧会事務官・農商務書記官、90年農商務省参事官、91年及び96年臨時博覧会事務官、93年農商務省[[特許局]]長の他、農商務省所管事務政府委員等を歴任。1903年[[錦鶏間祗候]]に列せられた(官歴は国立公文書館所蔵「従四位勲三等柳谷謙太郎特ニ錦鶏間祗候被仰付度儀ニ付宮内大臣ヘ照会ノ件」明治36年12月5日参照)。</ref> (追記ここまで)の書生となり、[[新暦]][[1875年]](明治8年)より3年間学資援助をうけて学業に専念するとともに、[[東京日日新聞]]などへの寄稿で言論活動にも手を染めた。<ref name=":1" /><ref(追記) name=":4" (追記ここまで)>高井多佳子「柴四朗の言論活動」</ref>
[[1877年]](明治10年)に[[西南戦争]]が勃発すると、旧会津藩士が多く属した別働第二旅団に従軍、旅団御用掛を務め、平定後は翌年末まで同旅団の戦記編纂に従事した<ref name=":2" />。この際、[[熊本鎮台]]司令長官[[谷干城]]に見出され、さらに谷を通して[[豊川良平]]([[岩崎弥太郎]]の従兄弟)との知遇を得、[[岩崎家]]の援助を受けて(削除) 27 (削除ここまで)歳で(削除) [[1879年]](明治12年)1月より (削除ここまで)[[アメリカ合衆国|アメリカ]](削除) への (削除ここまで)留学を果た(削除) した (削除ここまで)<ref name=":1" />。
[[1877年]](明治10年)に[[西南戦争]]が勃発すると、旧会津藩士が多く属した別働第二(追記) [[ (追記ここまで)旅団(追記) #沿革|旅団]] (追記ここまで)に従軍、旅団御用掛を務め、平定後は翌年末まで同旅団の戦記編纂に従事した<ref name=":2" />。この際、[[熊本鎮台]]司令長官[[谷干城]]に見出され、さらに谷を通して[[豊川良平]]([[岩崎弥太郎]]の従兄弟)との知遇を得、[[岩崎家]]の援助を受けて(追記) 満26 (追記ここまで)歳で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]留学を果た(追記) す (追記ここまで)<ref name=":1" />。
=== アメリカ留学 ===
=== アメリカ留学 ===
渡航(削除) 後は (削除ここまで)当時柳谷が[[領事]]として駐在していた[[サンフランシスコ]]において、岩崎家の意向からパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業専門学校)に通い[[ディプロマ]](修了証書)を取得<ref name=":0">戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗」</ref>。さらに東海岸へ移(削除) って (削除ここまで)マサチューセッツ州の[[ハーバード大学]]で(削除) 短期間ながら政治 (削除ここまで)経済学を学んだ後、[[フィラデルフィア]]へ移り、全米初の[[ビジネススクール]]として(削除) 同年に (削除ここまで)設(削除) 立 (削除ここまで)された[[ペンシルベニア大学]][[ウォートン・スクール|ウォートン校]](Wharton School of Finance and Economy)にSpecial Student(特別生)として(削除) 籍を置き (削除ここまで)、[[1884年]](削除) (明治17年)6 (削除ここまで)月に第1期卒業生としてBachelor of Finance(財務学士)の[[学位]]を取得<ref name=":0" /><ref>''University of Pennsylvania: Catalogue and Announcements 1884-1885'', Philadelphia: printed for the University, 1885, p.120,126. なお、同期のBachelor of Finance 取得者は柴を含め5名、そのうち1名にSecond Class Honors、柴を含む2名にThird Class Honorsが授与された。</ref>(削除) 。 (削除ここまで)柴の論文「Taxation in Japan」は同校の政治科学年報創刊号に掲載(削除) ・紹介された (削除ここまで)<ref>''The Wharton School Annals of Political Science. No.1. March, 188''5, Philadelphia: Wharton School of Finance and Economy, University of Pennsylvania, pp.86-101.</ref>。
(追記) [[1879年]]1月 (追記ここまで)渡航(追記) 。 (追記ここまで)当時柳谷が[[領事]]として駐在していた[[サンフランシスコ]]において、岩崎家の意向からパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業専門学校)に通い(追記) 、 (追記ここまで)[[ディプロマ]](修了証書)を取得<ref name=":0">戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗」</ref>。さらに東海岸へ移(追記) り、同年11月より (追記ここまで)マサチューセッツ州(追記) [[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]] (追記ここまで)の[[ハーバード大学]]で経済学を学んだ後(追記) <ref name=":2" /> (追記ここまで)、(追記) 1881年6月に (追記ここまで)[[フィラデルフィア]]へ移り、(追記) 同年に (追記ここまで)全米初の[[ビジネススクール]]として(追記) 新 (追記ここまで)設された[[ペンシルベニア大学]][[ウォートン・スクール|ウォートン校]](Wharton School of Finance and Economy)にSpecial Student(特別生)として(追記) 入学<ref name=":2" /> (追記ここまで)、(追記) アイルランド出身の社会科学教授ロバート・エリス・トンプソン(Robert Ellis Thompson: 1844–1924)に師事した<ref name=":2" /><ref name=":5">上野格「続 東海散士(柴四朗)の蔵書」</ref>。 (追記ここまで)[[1884年]](追記) 6 (追記ここまで)月に第1期卒業生としてBachelor of Finance(財務学士)の[[学位]]を取得(追記) <ref name=":2" /> (追記ここまで)<ref name=":0" /><ref>''University of Pennsylvania: Catalogue and Announcements 1884-1885'', Philadelphia: printed for the University, 1885, p.120,126. なお、同期のBachelor of Finance 取得者は柴を含め5名、そのうち1名にSecond Class Honors、柴を含む2名にThird Class Honorsが授与された。</ref>(追記) ( (追記ここまで)柴の論文「Taxation in Japan」は同校の政治科学年報創刊号に掲載<ref>''The Wharton School Annals of Political Science. No.1. March, 188''5, Philadelphia: Wharton School of Finance and Economy, University of Pennsylvania, pp.86-101.</ref>(追記) )。卒業後は7月よりアメリカ諸州及びメキシコを巡遊し、12月末日に帰国 (追記ここまで)。
=== 『佳人之奇遇』の出版 ===
=== 『佳人之奇遇』の出版 ===
(削除) [[1885年]](明治18年)初めの帰国後、 (削除ここまで)保護主義を旨とする当時の[[アメリカ学派 (経済学)|アメリカ流の経済学]]を専修した(削除) 立場 (削除ここまで)から、(削除) 柴は同 (削除ここまで)年(削除) 6月 (削除ここまで)に、[[保護貿易|保護貿易主義]]を標榜する学術団体「[[日本経済会]]」の創立に参加、柳谷謙太郎・[[若山儀一]]・(削除) [[ (削除ここまで)犬養毅(削除) ]] (削除ここまで)・[[和田垣謙三]]とともに事務委員に選定された<ref>三島憲之「日本経済会の設立と背景」『[[東北公益文科大学]]総合研究論集 : forum21』8号、2004年</ref>。(削除) さらに (削除ここまで)同年10月に(削除) は (削除ここまで)、持論である「国権伸長」論を基調とする[[ナショナリズム]]小説『[[佳人之奇遇]]』初編を'''東海散士'''の筆名で発表(以後1897年までに全8編16巻を刊行)。同書は[[矢野龍渓]]『[[経国美談]]』、[[末広鉄腸]]『[[雪中梅]]』とともに[[自由民権運動]]期(削除) より (削除ここまで)人気を博した[[政治小説]]の代表作に数えられている。
保護主義を旨とする当時の[[アメリカ学派 (経済学)|アメリカ流の経済学]]を専修し(追記) てい (追記ここまで)た(追記) 柴は、留学中 (追記ここまで)から(追記) [[犬養毅]]・[[馬場辰猪]]らが創刊した『東海経済新報』にアメリカの経済景況・見聞記事を多数寄稿し (追記ここまで)、(追記) 貿易論・外国船舶運輸論・鉄道論等を開陳していたが<ref name=":5" />、帰国後の[[1885 (追記ここまで)年(追記) ]](明治18年) (追記ここまで)に(追記) は (追記ここまで)、[[保護貿易|保護貿易主義]]を標榜する学術団体「[[日本経済会]]」の創立に参加、柳谷謙太郎・[[若山儀一]]・犬養毅・[[和田垣謙三]]とともに事務委員に選定された<ref>三島憲之「日本経済会の設立と背景」『[[東北公益文科大学]]総合研究論集 : forum21』8号、2004年</ref>。(追記) そして (追記ここまで)同年10月(追記) 、すで (追記ここまで)に(追記) 留学中から構想・執筆し (追記ここまで)、持論である「国権伸長」論を基調とする[[ナショナリズム]]小説『[[佳人之奇遇]]』初編を'''東海散士'''の筆名で発表(以後1897年までに全8編16巻を刊行)。同書は[[矢野龍渓]]『[[経国美談]]』、[[末広鉄腸]]『[[雪中梅]]』とともに[[自由民権運動]]期(追記) から (追記ここまで)人気を博した[[政治小説]]の代表作に数えられている。
=== 農商務大臣秘書官として洋行 ===
=== 農商務大臣秘書官として洋行 ===
[[1886年]](明治19年)2月、[[外務省]]から転じた柳谷とともに初代[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]谷干城の秘書官に任命され<ref>『官報』1886年2月12日「叙任」</ref>、さらに谷大臣のヨーロッパ(削除) 派遣 (削除ここまで)への随行を被命<ref>『官報』1886年2月20日「官庁事項」</ref>。同年3月(削除) からの (削除ここまで)15か月間(削除) の (削除ここまで)洋行で、柴は[[エジプト]]・[[フランス第三共和政|フランス]]・[[スイス]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[オスマン帝国|トルコ]]・[[ギリシャ王国|ギリシャ]]・[[イタリア王国|イタリア]]・[[イギリス帝国|英国]]・アメリカを訪(削除) 問 (削除ここまで)する機会に恵まれた<ref>農商務省編刊『欧米巡回取調書一 総覧』1888年、55-58頁</ref>。
[[1886年]](明治19年)2月、[[外務省]]から転じた柳谷とともに初代[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]谷干城の秘書官に任命され<ref>『官報』1886年2月12日「叙任」</ref>、さらに谷大臣のヨーロッパ(追記) 視察 (追記ここまで)への随行を被命<ref>『官報』1886年2月20日「官庁事項」</ref>。同年3月(追記) に横浜出港、[[スエズ運河|スエズ]]経由で4月に[[マルセイユ]]入港。以後 (追記ここまで)15か月間(追記) に渡る (追記ここまで)洋行で、柴は[[エジプト]]・[[フランス第三共和政|フランス]]・[[スイス]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[オスマン帝国|トルコ]]・[[ギリシャ王国|ギリシャ]]・[[イタリア王国|イタリア]]・[[イギリス帝国|英国]]・アメリカを(追記) 歴 (追記ここまで)訪する機会に恵まれた(追記) <ref name=":4" /> (追記ここまで)<ref>農商務省編刊『欧米巡回取調書一 総覧』1888年、55-58頁</ref>。
また、途中寄航した英領[[セイロン島]]では[[流罪|流刑]]中のエジプトの軍人[[革命家]][[アフマド・オラービー]]、イタリアの[[トリノ]]ではハンガリーの[[亡命]]革命家[[コシュート・ラヨシュ]]と面会し、後に『佳人之奇遇』続編に彼らを登場させた<ref>高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む」</ref>。[[1887年]](明治20年)6月の帰国直後、[[欧化主義]]から[[国粋主義]]に転じた谷大臣が[[条約改正#条約改正会議と世論の沸騰|条約改正]]案に反対して[[井上馨]]外相と対立、7月26日に辞職<ref>『官報』1887年7月26日・号外</ref>すると、柴も30日に辞表を提出した<ref>『官報』1887年8月1日「辞令」</ref>。
また、途中寄航した英領[[セイロン島]]では[[流罪|流刑]]中のエジプトの軍人[[革命家]][[アフマド・オラービー]]、イタリアの[[トリノ]]ではハンガリーの[[亡命]]革命家[[コシュート・ラヨシュ]]と面会し、後に『佳人之奇遇』続編に彼らを登場させた<ref>高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む」</ref>。[[1887年]](明治20年)6月の帰国直後、[[欧化主義]]から[[国粋主義]]に転じた谷大臣が[[条約改正#条約改正会議と世論の沸騰|条約改正]]案に反対して[[井上馨]]外相と対立、7月26日に辞職<ref>『官報』1887年7月26日・号外</ref>すると、柴も30日に辞表を提出した<ref>『官報』1887年8月1日「辞令」</ref>。
=== 言論人・代議士として ===
=== 言論人・代議士として ===
[[1888年]](明治21年)11月、大阪日報の買収再編に伴い改題した『[[大阪毎日新聞]]』の主筆として迎えられたが、柴はこの前後より[[後藤象二郎]]らによる[[大同団結運動]]に参加するなど言論・政治活動を活発化させたため、同紙の不偏不党の方針への背馳と売上部数の低下により出資者の反発を買い、翌年5月に事実上更迭された<ref>大阪毎日新聞社・東京日日新聞社共編『毎日年鑑』1931年、213頁「大阪毎日新聞五十年」</ref><ref>高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」」</ref>。
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(削除) [[1888年]](明治21年)11月には[[大阪毎日新聞]]の主筆として迎えられた(翌年5月迄)<ref>大阪毎日新聞社・東京日日新聞社共編『毎日年鑑』1931年、213頁「大阪毎日新聞五十年」</ref><ref>高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」」</ref>。この前後より[[後藤象二郎]]らによる[[大同団結運動]]に参加するなど言論・政治活動を活発化させ、 (削除ここまで)[[1892年]](明治25年)2月の[[第2回衆議院議員総選挙]]では福島県第4区から立候補し初当選。以後、福島県選出の[[代議士]]として活動し、計(削除) 10 (削除ここまで)回当選([[立憲革新党]]・[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]・[[憲政党]]・[[憲政本党]]・[[大同倶楽部#大同倶楽部 (1905年–1910年)|大同倶楽部]]・[[立憲同志会]]・[[憲政会]]に所属)。この間、[[鉄道会議]]議員(1895年)、農商務[[次官]](1898年:[[第1次大隈内閣|隈板内閣]])、[[教科用図書]]調査委員会委員(1908年)、議院建築準備委員会委員(1910年)、広軌鉄道改築準備委員会委員(1911年)、外務[[参政官]]・外務省所轄事務[[政府委員]](1915-16年:[[第2次大隈内閣]])などを歴任した。
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[[1892年]](明治25年)2月の[[第2回衆議院議員総選挙]]では福島県第4区から立候補し初当選。以後、福島県選出の[[代議士]]として活動し、(追記) 1918年(大正7年)までの総選挙及び補欠選挙で (追記ここまで)計(追記) 11 (追記ここまで)回当選(追記) ・2回落選<ref>衆議院事務局編刊『衆議院議員略歴 第1回乃至第18回総選挙』1932年、505頁</ref> (追記ここまで)([[立憲革新党]]・[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]・[[憲政党]]・[[憲政本党]]・[[大同倶楽部#大同倶楽部 (1905年–1910年)|大同倶楽部]]・[[立憲同志会]]・[[憲政会]]に所属)。この間、[[鉄道会議]]議員(1895年)、農商務[[次官]](1898年:[[第1次大隈内閣|隈板内閣]])、[[教科用図書]]調査委員会委員(1908年)、議院建築準備委員会委員(1910年)、広軌鉄道改築準備委員会委員(1911年)、外務[[参政官]]・外務省所轄事務[[政府委員]](1915-16年:[[第2次大隈内閣]])などを歴任した。
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また、[[1900年]](明治33年)5月、[[山川健次郎]]・今泉六郎らとともに「会津図書館共立会」を設立し、会津若松に図書館を建設する運動を展開した{{sfn|寄川|2015|p=37, 49}}([[若松市 (福島県)|若松市]]立[[会津若松市立会津図書館|会津図書館]]として[[1904年]]2月開館{{sfn|寄川|2015|p=50}})。
=== 閔妃暗殺事件 ===
=== 閔妃暗殺事件(追記) ・清国視察など (追記ここまで) ===
この間、柴は[[日清戦争]]後に駐[[大韓帝国|韓]][[特命全権公使]]に任命された[[三浦梧楼]]の顧問として渡韓、[[1895年]](明治38年)10月に三浦らが[[漢城府|漢城]]で惹き起こした[[乙未事変]]([[閔妃]]暗殺事件)により、事件に関与した容疑者の一人として[[広島刑務所|広島監獄署]]に勾留、[[予審]]取調を受けたが事件との関係自体が証拠不十分とされ、翌年1月に予審[[免訴]]となった<ref>宮崎十三八『手作り会津史』より「伊豆熱海の柴四朗」</ref><ref>1896年1月23日付時事新報記事(『新聞集成明治編年史』第九卷、林泉社、1940年、361-362頁)</ref>。
この間、柴は[[日清戦争]]後に駐[[大韓帝国|韓]][[特命全権公使]]に任命された[[三浦梧楼]]の顧問として渡韓、[[1895年]](明治38年)10月に三浦らが[[漢城府|漢城]]で惹き起こした[[乙未事変]]([[閔妃]]暗殺事件)により、事件に関与した容疑者の一人として[[広島刑務所|広島監獄署]]に勾留、[[予審]]取調を受けたが(追記) 、 (追記ここまで)事件との関係自体が証拠不十分とされ、翌年1月に予審[[免訴]]となった<ref>宮崎十三八『手作り会津史』より「伊豆熱海の柴四朗」</ref><ref>1896年1月23日付時事新報記事(『新聞集成明治編年史』第九卷、林泉社、1940年、361-362頁)</ref>。
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また、[[1900年]](明治33年)5月(追記) には (追記ここまで)、[[山川健次郎]]・今泉六郎らとともに「会津図書館共立会」を設立し、会津若松に図書館を建設する運動を展開した{{sfn|寄川|2015|p=37, 49}}([[若松市 (福島県)|若松市]]立[[会津若松市立会津図書館|会津図書館]]として[[1904年]]2月開館{{sfn|寄川|2015|p=50}})。
さらに柴は、同じく1900年勃発の[[義和団の乱|北清事変]](北京籠城戦では公使館付[[駐在武官]]であった実弟の[[柴五郎]][[砲兵]][[中佐]]が奮戦)を契機として9月に結成された[[国民同盟会]]に参加。[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の脅威に対して「支那保全論」を唱える同盟会の趣旨に基づき、9月下旬から11月にかけて[[竹内正志]]代議士とともに[[清国]]へ渡り、事変終結の実況を視察した<ref name=":4" />。
その後、[[1903年]](明治36年)の[[第8回衆議院議員総選挙]]で落選した柴は、ロシアに対する主戦論の立場から、同年中に[[未来]]小説『日露戦争 羽川六郎』を執筆刊行、旧会津藩士羽川六郎なる架空人物の自伝という体裁で、北清事変から日露開戦、日本の勝利と日米英による万国平和会議の開催までを描いた<ref name=":4" />。
=== 家族・晩年 ===
=== 家族・晩年 ===
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* [[昭和女子大学]]近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻(饗庭篁村・宮崎湖処子・大口鯛二・東海散士)、1964年。
* [[昭和女子大学]]近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻(饗庭篁村・宮崎湖処子・大口鯛二・東海散士)、1964年。
* [[宮崎十三八]]『手作り会津史』歴史春秋社、1996年。
* [[宮崎十三八]]『手作り会津史』歴史春秋社、1996年。
* 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」『[[成城大学]]經濟研究』55-56合併号(削除) 、223-249頁 (削除ここまで)、1976年(削除) 12月 (削除ここまで)。
* 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」(追記) 成城大学経済学会 (追記ここまで)『[[成城大学]]經濟研究』55-56合併号、1976年。
* 上野格「続 東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」成城大学経済学会『成城大学經濟研究』64号、1979年。
* 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む―小説と現実の「時差」」[[京都女子大学]]史学研究室『史窓』58号、2001年。
* 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む―小説と現実の「時差」」[[京都女子大学]]史学研究室『史窓』58号、2001年。
* 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」―『大阪毎日新聞』主筆就任から退社まで」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編1号、2002年。
* 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」―『大阪毎日新聞』主筆就任から退社まで」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編1号、2002年。
2024年10月18日 (金) 21:54時点における版
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年 1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将 柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。
生涯
会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国 君津郡 富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当[1] )に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。[2]
会津戦争
藩士子弟の通例に従い数え10歳より藩校 日新館で小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め[3] 、大学部を経たのち上洛。慶応4年初めの鳥羽・伏見の戦いには父・兄とともに出陣、5ヶ月後の会津戦争では白虎隊に配属されたが、途中で病のため籠城組となり生き残った。ただし、柴家の女性5名(祖母・母・兄嫁・姉妹ら)は、足手纏いとなることを避けるために私邸で自刃に及んだ[2] 。なお、籠城戦をくぐり抜けた同年代の後輩には、山川健次郎・高嶺秀夫・井深梶之助・高木盛之輔・赤羽四郎・山際永吾らがいた。
英学修業と西南戦争従軍
降伏開城後は諸士とともに猪苗代謹慎所、次いで東京の護国寺に移送された。明治3年(1870年)の赦免後は移封先の斗南藩(旧盛岡藩領内に設置)へ移住し、藩設置の英学校に通ったが、まもなく上京。沼間守一の私塾や山東直砥の北門社などで英学を学び、横浜在住英国人の書生を経て、斗南へ戻り広沢安任経営の牧場で英国人技師の通訳兼案内役として働き、実家では開墾に従事。その後、函館・弘前(東奥義塾)・会津へと転々とした末、再び上京。長兄太一郎の周旋で唐通事出身の横浜税関長柳谷謙太郎(1847–1923)[4] の書生となり、新暦 1875年(明治8年)より3年間学資援助をうけて学業に専念するとともに、東京日日新聞などへの寄稿で言論活動にも手を染めた。[2] [5]
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、旧会津藩士が多く属した別働第二旅団に従軍、旅団御用掛を務め、平定後は翌年末まで同旅団の戦記編纂に従事した[3] 。この際、熊本鎮台司令長官谷干城に見出され、さらに谷を通して豊川良平(岩崎弥太郎の従兄弟)との知遇を得、岩崎家の援助を受けて満26歳でアメリカ留学を果たす[2] 。
アメリカ留学
1879年1月渡航。当時柳谷が領事として駐在していたサンフランシスコにおいて、岩崎家の意向からパシフィック・ビジネス・カレッジ(商業専門学校)に通い、ディプロマ(修了証書)を取得[6] 。さらに東海岸へ移り、同年11月よりマサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学で経済学を学んだ後[3] 、1881年6月にフィラデルフィアへ移り、同年に全米初のビジネススクールとして新設されたペンシルベニア大学 ウォートン校(Wharton School of Finance and Economy)にSpecial Student(特別生)として入学[3] 、アイルランド出身の社会科学教授ロバート・エリス・トンプソン(Robert Ellis Thompson: 1844–1924)に師事した[3] [7] 。1884年6月に第1期卒業生としてBachelor of Finance(財務学士)の学位を取得[3] [6] [8] (柴の論文「Taxation in Japan」は同校の政治科学年報創刊号に掲載[9] )。卒業後は7月よりアメリカ諸州及びメキシコを巡遊し、12月末日に帰国。
『佳人之奇遇』の出版
保護主義を旨とする当時のアメリカ流の経済学を専修していた柴は、留学中から犬養毅・馬場辰猪らが創刊した『東海経済新報』にアメリカの経済景況・見聞記事を多数寄稿し、貿易論・外国船舶運輸論・鉄道論等を開陳していたが[7] 、帰国後の1885年(明治18年)には、保護貿易主義を標榜する学術団体「日本経済会」の創立に参加、柳谷謙太郎・若山儀一・犬養毅・和田垣謙三とともに事務委員に選定された[10] 。そして同年10月、すでに留学中から構想・執筆し、持論である「国権伸長」論を基調とするナショナリズム小説『佳人之奇遇』初編を東海散士の筆名で発表(以後1897年までに全8編16巻を刊行)。同書は矢野龍渓『経国美談』、末広鉄腸『雪中梅』とともに自由民権運動期から人気を博した政治小説の代表作に数えられている。
農商務大臣秘書官として洋行
1886年(明治19年)2月、外務省から転じた柳谷とともに初代農商務大臣谷干城の秘書官に任命され[11] 、さらに谷大臣のヨーロッパ視察への随行を被命[12] 。同年3月に横浜出港、スエズ経由で4月にマルセイユ入港。以後15か月間に渡る洋行で、柴はエジプト・フランス・スイス・オーストリア=ハンガリー・ドイツ・トルコ・ギリシャ・イタリア・英国・アメリカを歴訪する機会に恵まれた[5] [13] 。
また、途中寄航した英領セイロン島では流刑中のエジプトの軍人革命家 アフマド・オラービー、イタリアのトリノではハンガリーの亡命革命家コシュート・ラヨシュと面会し、後に『佳人之奇遇』続編に彼らを登場させた[14] 。1887年(明治20年)6月の帰国直後、欧化主義から国粋主義に転じた谷大臣が条約改正案に反対して井上馨外相と対立、7月26日に辞職[15] すると、柴も30日に辞表を提出した[16] 。
言論人・代議士として
1888年(明治21年)11月、大阪日報の買収再編に伴い改題した『大阪毎日新聞』の主筆として迎えられたが、柴はこの前後より後藤象二郎らによる大同団結運動に参加するなど言論・政治活動を活発化させたため、同紙の不偏不党の方針への背馳と売上部数の低下により出資者の反発を買い、翌年5月に事実上更迭された[17] [18] 。
1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では福島県第4区から立候補し初当選。以後、福島県選出の代議士として活動し、1918年(大正7年)までの総選挙及び補欠選挙で計11回当選・2回落選[19] (立憲革新党・進歩党・憲政党・憲政本党・大同倶楽部・立憲同志会・憲政会に所属)。この間、鉄道会議議員(1895年)、農商務次官(1898年:隈板内閣)、教科用図書調査委員会委員(1908年)、議院建築準備委員会委員(1910年)、広軌鉄道改築準備委員会委員(1911年)、外務参政官・外務省所轄事務政府委員(1915-16年:第2次大隈内閣)などを歴任した。
閔妃暗殺事件・清国視察など
この間、柴は日清戦争後に駐韓 特命全権公使に任命された三浦梧楼の顧問として渡韓、1895年(明治38年)10月に三浦らが漢城で惹き起こした乙未事変(閔妃暗殺事件)により、事件に関与した容疑者の一人として広島監獄署に勾留、予審取調を受けたが、事件との関係自体が証拠不十分とされ、翌年1月に予審免訴となった[20] [21] 。
また、1900年(明治33年)5月には、山川健次郎・今泉六郎らとともに「会津図書館共立会」を設立し、会津若松に図書館を建設する運動を展開した(若松市立会津図書館として1904年2月開館)。
さらに柴は、同じく1900年勃発の北清事変(北京籠城戦では公使館付駐在武官であった実弟の柴五郎 砲兵 中佐が奮戦)を契機として9月に結成された国民同盟会に参加。帝政ロシアの脅威に対して「支那保全論」を唱える同盟会の趣旨に基づき、9月下旬から11月にかけて竹内正志代議士とともに清国へ渡り、事変終結の実況を視察した[5] 。
その後、1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙で落選した柴は、ロシアに対する主戦論の立場から、同年中に未来小説『日露戦争 羽川六郎』を執筆刊行、旧会津藩士羽川六郎なる架空人物の自伝という体裁で、北清事変から日露開戦、日本の勝利と日米英による万国平和会議の開催までを描いた[5] 。
家族・晩年
1901年(明治34年)12月、水田新太郎の次男・守明(1895年生)を養嗣子として迎え、1909年(明治42年)10月には深川芸者であったとされるキク(慶応元年生)と婚姻、キクにも養子庄作がおり、ともに入籍した[24] 。
政界引退後は、悠々自適の生活を送り、1922年(大正11年)9月、熱海の山荘で脳溢血により死去(享年71・満69歳没)[24] 。墓所は柴家の菩提寺である恵倫寺(会津若松市)。熱海市の海蔵寺には東海散士墓碑が所在。
著作
- 佳人之奇遇(柴四朗、1885–1897年)
- 東洋之佳人(博文堂、1888年)
- 埃及近世史(柴四朗、1889年)
- 広沢牧老人遺稿:経済問題に付要旨を述ふ(柴四朗編刊、1891年)
- 日露戦争 羽川六郎(有朋館、1903年)
- 世界盲人列伝(柴守明、1932年)
栄典
外国勲章佩用允許
脚注
- ^ 岡山大学池田家文庫・絵図公開データベースシステム「上総国富津台場之絵図 会津藩請持」説明参照。
- ^ a b c d 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書」
- ^ a b c d e f 国立公文書館所蔵・柴四朗履歴書より
- ^ 柳谷謙太郎(弘化4年生)は長崎奉行の唐通事柳谷忠四郞の養子となり家督を相続。維新後に長崎府 通弁役となり、1870年に神奈川県港規則取調御用掛、神奈川県准三等出仕を経て、71年より外務省出仕。運上所規則取調のため同年4月から12月までアメリカ出張。72年より大蔵省租税寮出仕、75年横浜税関長、76年末から82年末までサンフランシスコ駐在領事、83年外務少書記官。84年より農商務少書記官・同権大書記官、86年農商務大臣秘書官、88年パリ万国博覧会事務官・農商務書記官、90年農商務省参事官、91年及び96年臨時博覧会事務官、93年農商務省特許局長の他、農商務省所管事務政府委員等を歴任。1903年錦鶏間祗候に列せられた(官歴は国立公文書館所蔵「従四位勲三等柳谷謙太郎特ニ錦鶏間祗候被仰付度儀ニ付宮内大臣ヘ照会ノ件」明治36年12月5日参照)。
- ^ a b c d 高井多佳子「柴四朗の言論活動」
- ^ a b 戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗」
- ^ a b 上野格「続 東海散士(柴四朗)の蔵書」
- ^ University of Pennsylvania: Catalogue and Announcements 1884-1885, Philadelphia: printed for the University, 1885, p.120,126. なお、同期のBachelor of Finance 取得者は柴を含め5名、そのうち1名にSecond Class Honors、柴を含む2名にThird Class Honorsが授与された。
- ^ The Wharton School Annals of Political Science. No.1. March, 1885, Philadelphia: Wharton School of Finance and Economy, University of Pennsylvania, pp.86-101.
- ^ 三島憲之「日本経済会の設立と背景」『東北公益文科大学総合研究論集 : forum21』8号、2004年
- ^ 『官報』1886年2月12日「叙任」
- ^ 『官報』1886年2月20日「官庁事項」
- ^ 農商務省編刊『欧米巡回取調書一 総覧』1888年、55-58頁
- ^ 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む」
- ^ 『官報』1887年7月26日・号外
- ^ 『官報』1887年8月1日「辞令」
- ^ 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社共編『毎日年鑑』1931年、213頁「大阪毎日新聞五十年」
- ^ 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」」
- ^ 衆議院事務局編刊『衆議院議員略歴 第1回乃至第18回総選挙』1932年、505頁
- ^ 宮崎十三八『手作り会津史』より「伊豆熱海の柴四朗」
- ^ 1896年1月23日付時事新報記事(『新聞集成明治編年史』第九卷、林泉社、1940年、361-362頁)
- ^ a b 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻、345頁
- ^ 『官報』1886年7月12日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1898年8月5日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1907年9月23日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1916年8月21日「叙任及辞令」
- ^ 『官報』1890年2月17日「叙任及辞令」
参考文献
- 国立公文書館所蔵「農商務権大書記官柳谷謙太郎外一名農商務大臣秘書官ニ被任ノ件」添付の柴四朗履歴書(明治19年2月10日)。
- 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』21巻(饗庭篁村・宮崎湖処子・大口鯛二・東海散士)、1964年。
- 宮崎十三八『手作り会津史』歴史春秋社、1996年。
- 上野格「東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」成城大学経済学会『成城大学經濟研究』55-56合併号、1976年。
- 上野格「続 東海散士(柴四朗)の蔵書―明治初期経済学導入史の一齣」成城大学経済学会『成城大学經濟研究』64号、1979年。
- 高井多佳子「『佳人之奇遇』を読む―小説と現実の「時差」」京都女子大学史学研究室『史窓』58号、2001年。
- 高井多佳子「柴四朗の「国粋保存主義」―『大阪毎日新聞』主筆就任から退社まで」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編1号、2002年。
- 高井多佳子「柴四朗の言論活動―政治と思想の実践」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編8号、2009年。
- 戸田徹子「フィラデルフィアにおける柴四朗―日米交流の起点として」山梨県立大学国際政策学部『山梨国際研究』9号、2014年。
- 寄川条路「今泉六郎寄贈図書(洋書)の研究―日本で発見されたドイツの哲学者の自筆本をめぐって」『明治学院大学教養教育センター紀要 カルチュール』第9巻第1号、2015年3月24日、31-54頁、NAID 120005603059。
関連文献
- 榊時敏編『福島県名士列伝 一名衆議院議員候補者略伝(前編)』福島活版舎、1890年。
- 柳田泉『明治文学叢刊 政治小説研究 上』春秋社・松柏館、1935年(『佳人之奇遇』と東海散士)。
- 井上弘『近代文学成立過程の研究―柳北・学海・東海散士・蘇峰』有朋堂、1995年。
- 鈴木明『日本畸人伝―明治・七人の侍』潮書房光人新社、2000年。
- 大沼敏男「東海散士柴四朗略伝―人と思想」『新日本古典文学大系 明治編17 政治小説集2』岩波書店、2006年。
- 中井けやき『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』文芸社、2008年。
- 越智治雄「東海散士の系譜(ノート)」共立女子大学短期大学部紀要5巻、1961年(同著『近代文学成立期の研究』岩波書店・1984年所収)。
- 高井多佳子「東海散士柴四朗の政治思想―政治小説『佳人之奇遇』発刊以前」京都女子大学史学会『史窓』56号、1999年。
- 高井多佳子「柴四朗の国権論―『佳人之奇遇』における「自由」」京都女子大学史学研究室『史窓』60号、2003年。
- 高井多佳子「『東京電報』における柴四朗―高島炭坑視察実記」京都女子大学大学院文学研究科研究紀要・史学編2号、2003年。
- 熊谷昭宏「飛行と〈未来〉の日露戦争―東海散士『日露戦争羽川六郎』を中心に」同志社大学国文学会『同志社國文学』61号、2004年。
関連項目